第4話
昨日、自分にあんなセクハラをした本人を前に──
本当は、踵を返してその場から立ち去りたい。
でも、階段に腰掛けている黒崎さんの表情は……笑顔に見えて、
実際には、誰かの喉元に冷たい刃をあてがうような、そんな無言の圧に思えた。
それに、今逃げたところで、高校生活はまだ半分以上残ってる。
どうせ、いずれは向き合うことになるのなら……
黒崎さんとちゃんと仲良くなれたら、あの「契約」に頼りたくないって気持ちも、
きっと分かってもらえるはず。
だって、黒崎さんは普段、あんなに穏やかな人なんだから。
昨日のあれも、きっと……私が悪かったから。
小さくうなずいて、自分に言い聞かせるように階段を一段ずつ上っていく。
黒崎さんの隣に腰を下ろし、お弁当箱を両膝にのせた。
「あの、黒崎さん、さっき下の名前で呼んだのは……」
「だって、私たち夫婦じゃない? 苗字で呼んでたら、混乱しちゃうでしょ。ね、ク・ロ・サ・キ・ゆりな?」
「花園です……!」
隣の黒崎さんが、まるで何かを狙うような視線で身を寄せてくる。
夫とか妻とか、そんな役割は今は置いといて、結婚っていつ成立して、
いつ届け出たの!?
「え? もう“ああいうこと”もしたし?」
そう言いながら、彼女の手が頬に触れた。
肌触りは驚くほどなめらかで、その掌の体温がじわじわと伝わってくる。
そのまま頬を撫でていた手が、ゆっくりと動いていき──
親指が唇に添えられ、なぞられている。
そして、そのままぐっと押し当てられた。
見た目は優しい仕草なのに、その力は思った以上に強くて──思わず、びくりと肩が跳ねた。
「な、なにもし、してません!」
「ふふっ、ゆりなの反応って、本当かわいい」
肘を膝にのせて、頬に手を当てたまま、イタズラっぽさと優しさが入り混じった笑みを浮かべている、その顔。
背後の窓から差し込む光、空気中に舞う塵。
それらが彼女の美貌を一層引き立てていて──
思わず、目を逸らしてしまう。
光の届きにくい、どこか埃っぽさの残る静かな階段の空間で、
私たちはしばらくのあいだ、同じ姿勢のまま黙っていた。
沈黙を最初に破ったのは──
「お弁当、食べないの?」
不意にかかった声に、私は慌てて答える。
「も、もちろん食べます」
黒崎さんみたいなお嬢様の前で、自分の質素な弁当を開けるのは……正直、ちょっと恥ずかしい。
そっとフタを開けると、黒崎さんが興味津々といった様子でのぞき込んできた。
「あら、意外と……質素というか、しょぼい?ふーん……」
静かな場所が好きなのは嘘じゃない。けど──
本当は、人目を避けてただけかもしれない。
誰かにお弁当を見られたら、きっとこういう反応をされるって……分かってたから。
……そう思われるんじゃないかとは分かってたけど、
さすがに直球で言われると、ちょっと刺さる。
白飯に、塩気の強いベーコンと玉子焼き。
添えられているのは、柚子ポンで和えたわかめと漬けたキュウリ。
見た目だけなら、どう見ても「豪華」とは言い難い。
だけど──「しょぼい」なんて言葉、普通は人に向かってそう簡単に口にしない。
教室で見かける黒崎さんと、目の前のこの人……本当に同一人物なの?
でも、表情も声色も、どこか本気でけなしてるようには見えなかった。
むしろ、ほんの少しだけど、優しさみたいなものすら感じてしまった。
……これも、彼女の本当の一面なのかもしれない。
「ていうか、ご飯の割合多すぎない? 栄養バランス悪すぎ、そりゃ細くもなるわけだ。……まあ、可愛いと思うけど」
また頭を撫でようとしてきたけど、今回はなんとか避けきった。
「仕方ないじゃん。これくらい食べないとお腹空くし。……ていうか、可愛いとか、からかわないで」
「ふーん……まぁ」
手を撫で損ねたことには特に反応せず、彼女は自分のバッグからパンを取り出し、包装を開けてかじった。
「さっき私の栄養バランスを心配してた人が、パンだけってどうなの……」
小声でつぶやきつつ、私はご飯をひと口。
自分でも小柄だとは思う。
手元のこのお弁当も、定食屋に持って行ったら特盛認定されそうなレベルだし。
自分でも、年相応の量じゃないってわかってる。
……でも、これくらい食べないと、お腹がもたないんだから、しょうがない。
これも節約と満足感を両立させた結果。
パンをかじっていた黒崎さんが、急にこちらを見て言った。
「このパン、すっごく美味しいよ。 あとね、私、栄養足りてるから」
……聞こえてたの!?
彼女の胸元は、ただでさえ目立つラインなのに、背筋まで伸ばして胸をぐいっと突き出すような姿勢を取った。
今にも弾けそうなボタンは、その曲線を何とか押さえつけようと必死に頑張っていて。
絶対わざとでしょ...。
……思わず自分の胸元に視線を落として、ため息が出そうになった。
数口かじったパンを、そのままこちらに差し出してきた。
「食べる? 栄養補給」
モデルみたいな笑顔を見せられても……
パンも白ご飯も、結局は同じ炭水化物なんだけどね。
「栄養はそういうもので判断しないってば……それに、日本人はやっぱり白米! 安くて美味しくて栄養豊富!」
そう言って、またひと口。
「じゃあ、私にもひと口ちょうだい」
「んっ……」
返事もそこそこに、お弁当を差し出すと──
「じゃ、遠慮なく」
そう言って彼女が身を寄せてきた、その瞬間。
唇が──重なった。
柔らかくて、熱を帯びた感触。
一方的な侵略。
抗議の目と、嬉しそうな征服者の視線が交差する。
香り、体温、吐息に混じる湿気。
そのすべてに感覚を支配されて、身体が動かせなかった。
……もう、これが初めてじゃないはずなのに。慣れてるわけでも、抵抗できるわけでもなかった。
黒崎さんの唇が離れる直前、私の下唇を軽く吸われた。
離れた彼女の顔に、差し込む光が淡く影を落とす。
呼吸に合わせて上下する胸元、ほんのわずかな唇の動きと、小さな嚥下音。
それらすべてが、今のキスの余韻として、焼き付いていた。
「ごちそうさま。ほんとに、美味しかった」
捕食者のような笑みを浮かべながら。
「ん、ん、うわあああああっ」
声にならない悲鳴が、口からあふれた。
そう、まただ。
同じ場所で、24時間も経たずに、同じ相手に──奪われた。
その動揺に、思わず身体が跳ね、
「カタッ」
音に気づいて、ふたり同時に顔を向けてしまった。
危うく弁当をこぼしかけた。
「あらあら、物は大事にね」
当事者は知らん顔で、パンをもうひと口。
こうして、いつもと違う、変な空気の昼休みは──
締めくくられた。
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