第7話 星の見えない夜
セリンは、今日もアストラ川に来ていた。
水面は静かで、時折吹く風がさざ波をつくる。
遠くで鳥が一声鳴いたきり、周囲に人の気配はない。
──誰もいない。
それが、いつものことだった。
セリンはふと空を見上げた。
ヴェリオンの光は薄く、今日は雲が多い。
「……星、見えるかな」
ポツリと呟いた声が川に吸い込まれて消える。
夜の帳が降りる前の、ぼんやりとした黄昏時の空
灰銀に、滲む紫がじわりと濃さを増していく。
セリンは岩の上に腰を下ろし、小さな膝を抱え込むようにして空を見上げた。
見慣れたその景色が今日は、ほんの少しだけ遠く感じた。
そして、いつもより少し長いため息が胸の奥からこぼれた──
「兄さん……」
名前しか知らない、兄の事をセリンは考えていた。
***
父は、今日も朝から妙に落ち着きがなかった。
食事もほとんど手をつけず、「出かけてくる」とだけ短く言って
足早に家を出ていった。
それだけのことなのに──
いつもと同じような朝のはずなのに
心の奥が、妙にざわついた。
言葉では説明できない違和感のようなものだった。
何かを隠されているような……そんな気配だけが残った。
セリンは無意識に立ち上がっていた。
迷いながらも外へ出て、ほんの少し距離を置いて
父の背を追いかけた。
冷たい風が、シャツの裾を軽く揺らす。
(……どこへ行くの?)
心の中でだけ、小さな声が呟かれた。
人気のない細い裏通りを抜けて、見慣れない住宅街を通り過ぎ
やがて父が足を止めたのは
白いペンキが少し剥がれかけた、小さな家の前だった。
古びた木の外壁は、ところどころ色が薄れている。
でも、玄関先の鉢植えや風に揺れるカーテンが
どこか温かな生活の気配を漂わせていた。
表札には──
「REGNA」
手書きのような素朴な文字が、小さな木の板に焼き付けられている。
父はチャイムも押さず、そのまま家の裏手へ回っていった。
でもセリンは、そこから先には行けなかった。
足が動かなかった。
何か、触れてはいけないような気がして。
遠くから見つめる事しかできなかった。
父さんは、ここで何をしているんだろう?
レグナって誰なんだろう?
セリンの胸の奥に、小さな波紋のようなざわめきが広がっていった。
声をかければ、届く距離だった。
たった一言、問いかければ──
でも、そのたった一言が喉の奥にとどまったままだった。
足元には、言葉の代わりに小さな影だけが残った。
朝の光は、いつもより白く眩しく感じた。
けれど、胸の内は逆行するようにどこか色を失っていくようだった。
セリンは、静かにその場を離れた。
父の姿を、背中から目で追ったまま──
そっと来た道を引き返していった。
***
今日の夕飯は、温かいポタージュと色鮮やかなサラダと
朝、セラが焼いたバケットだった。
ノアとネアが「ごちそーさま!」と声をそろえて席を立った。
バタバタと足音を響かせながら、食器を片づけに行く。
セラは「はい、よくできました」と笑いながら言ったあと
食卓に残ったセリンの様子にふと目を向けた。
セリンの手元には、まだスープの器が残っていた。
スプーンは止まったまま。
けれど、彼はそれを見つめるでもなく、ただ静かに目を伏せていた。
「……お腹、いっぱい?」
セリンは、ゆっくりと顔を上げた。
「ねえ、母さん」
その声は、どこかためらいがちだった。
「“レグナ”って……誰?」
その一言で、セラの手がぴたりと止まった。
空気が、かすかに揺れる。
セラは、テーブルの上に置いていたカップをそっと手に取り
しばらくそれを見つめていた。
やがて、小さく息を吐いて静かに口を開いた。
「どうして、そんなことを……?」
「今日、父さんの後を……つけたんだ。」
「知らない家に入っていくのを見た。表札に、“レグナ”ってあって……」
セリンの声がわずかに震える。
セラは、ゆっくりと頷いた。
「……そう。」
「“レグナ”って人……知ってるの?」
──少しの沈黙。
そしてセラは、小さく微笑むように言った。
「お母さんと結婚する前……お父さんには、子どもがいたの。
名前は──セファル。あなたの……兄になるわね。」
セリンの中で、何かがそっと崩れた。
でも、少しだけ予想はしていた。
けれど、真実を知るのが怖くてずっと聞けなかった。
セラは、意を決したように話を続けた。
「セファルくんのお母さんは、とても体が弱くて
セファルくんを産んですぐに病気で亡くなってしまったそうよ。」
セリンは息を呑んだ。
知らなかった。──いや、知るはずもなかった。
「その時、まだお父さんも若かったし
仕事が忙しくて、一人で赤ちゃんを育てるのは無理だったのね。」
「セファルくん──兄さんは、どうしたの?」
「セファルくんのお母さんの両親のお家に行く事になったの。
それが今日あなたが見たお家、レグナさんよ。」
(セファル・レグナ──兄さんに会いに行ってたんだ……)
「なんで父さんは、僕に話してくれないの?」
セリンは、父への苛立ちをセラにぶつけるように言った。
「──お父さんは、セリンがもう少し大人になってから
ちゃんと話すつもりなんだと思うわ。」
セラは、テーブル越しにそっとセリンの手に触れた。
「母さんは、知ってたんだね。」
そう言って、そっとその手をほどき、椅子から立ち上がった。
「ちょっと……外、見てくる」
「セリン……」
呼び止めようとした声を背に、セリンはゆっくり部屋を出た。
ドアを開けた瞬間、少し冷えた空気が頬をなでる。
セリンは、胸に溜まった重苦しい空気を吐き出すように
大きく深呼吸をした。
胸の奥が、まだざわついていた。
兄という存在。
隠されていた家族。
父の沈黙。
母の優しさ。
すべてが、言葉にならないまま、空へと昇っていく気がした。
彼は、空を見上げた。
灰銀に、滲む紫がじわりと濃さを増していた。
ゆっくりと足をアストラ川の方へ向けた。
その足取りは、決して早くはなかったけれど
確かに「何かを確かめに行く」ような、そんな強さを帯びていた。
アストラ川は、今日も静かに流れていた。
水面は風にさざめきながら、淡い光を受けてゆらめいている。
けれど、そこに星の輝きは映っていなかった。
セリンは、川辺の岩にそっと腰を下ろした。
小さい膝を抱えるようにして、空を見上げる。
──星は、見えなかった。
誰もいないアストラ川が余計に暗く寂しく感じた。
セリンは、ふっと細く息を吐いた。
「セファル・レグナ……兄さん」
誰にも届かないような、小さな声だった。
冷たい風が、その声を流しながら
さらりと髪を揺らしていった。
そのとき──
草の擦れる音がした。
セリンは、反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。
「……君も、星を見に来たの?」
その声は、どこか違う風の匂いがした。
冷たくはない。でも、少しだけ距離を感じる声音。
セリンは、しばらく返事をしなかった。
誰かがこの場所に来るなんて、思ってもいなかったから驚いていた。
「……君は?」
問い返すと少年はひとつ瞬きをして、そして言った。
「ケリス。ケリス・ノクティア」
その名前が、空に静かに溶けていった。
ケリス──
その名前は、セリンの中でゆっくりと波紋のように広がっていった。
聞いたことも、見たこともない。
けれど、何かがひっかかるような不思議な感覚があった。
「君は?」
ケリスが、今度は静かに訊いた。
セリンは、ほんの少し間をおいて答える。
「セリン。……セリン・アステリア」
「……星、見えないね」
セリンがぽつりと呟いた。
ケリスも空を仰いだ。
「今日は、雲が多いね。でも……」
ケリスは、肩から提げた布の小さなケースをそっと開いた。
中から出てきたのは、丁寧に折りたたまれた古びた紙の星図だった。
「──たぶん、あの雲の向こうにヴェルナがある。
この時間帯なら、そっちの角度に出てるはずなんだ」
セリンは目を丸くした。
「君、星に詳しいんだな」
ケリスは少しだけ照れたように笑った。
「この星図の星を見に来たんだ。」
「一人で来たの?」
「うん。」
どこから来たの?と聞こうとして
──目の前の少年の瞳が、自分とは違う色をしていることに気付いた。
ほんのりと光を含んだ深い青色──
夜の星々を写し取ったような、不思議な瞳。
「あ……君、ノクテリスの人?」
ケリスはちょっとだけ目を見開いて、それから頷いた。
「うん!」
「目の色が……僕たちとは違うもんね。」
セリンがそう言うと、ケリスはふっと微笑んだ。
「アストレリスの人は、銀の光を持ってる。
目に、空の色が映ってるみたいだ。」
セリンはなんとなく照れて、少しだけ顔をそらした。
「……初めて言われた。」
「いいね、綺麗な色だ。」
その言葉は、風のように軽く、だけど真っ直ぐだった。
二人はまた、同じ空を見上げる。
雲はまだ多かったが、ほんのひと時だけ
ヴェルナの光がその合間から顔を覗かせた。
その光は、まるでふたりを祝福するかのように
川面に淡く差し込んだ。
しばらく二人は、星図を広げたまま川辺に座っていた。
風が吹くたび、古びた紙が静かに揺れる。
空は、まだ星を見せてはくれなかった。
けれど、灰銀に滲む濃い紫は、夜の始まりを告げている。
「……ケリス、また会える?」
セリンが尋ねると、ケリスは嬉しそうに目を輝かせ大きく頷いた。
「うん!また来るよ。星が見たいから!」
その言葉に、セリンも自然と笑っていた。
「じゃあ……またここで会おう。」
「うん!」
ケリスは、そう言って星図を丁寧に畳み、ケースにしまった。
その手つきが、少しだけ名残惜しそうだった。
二人は並んで立ち上がり、無言のまま空を仰いだ。
雲はまだ多く、星はまだ見えない。
それでも、不思議と“見えないこと”が怖くはなかった。
さっきまで胸に渦巻いていた重たいものが
少しずつ、遠くに溶けていくようだった。
兄のこと。父の沈黙。自分だけが知らなかった家族のこと。
その全てが、まだ答えは出ていないはずなのに──
ほんの少しだけ、呼吸が楽になっていた。
セリンは、そっと目を閉じた。
今日、星は見えなくても、いつかまた、きっと。
──そのときは、誰かと一緒に。
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