群青の缶

 アトリエ奥には、小さな備品室が口を開けていた。壁と同じく煤で黒く、扉は外れて斜めにぶら下がっている。部屋の中から、乾いた埃と、かすかに金属の錆びた匂いが流れ出ていた。

「刷毛や木炭、使えそうなん探そか」


 透子先輩はそう言って、棚上段の木箱を引きずり出した。私は膝をつき、下段をまさぐる。指に当たるのは乾ききった布、ひび割れたガラス瓶、歪んだパレット。火災の熱で溶け、色を失った残骸だけが積もっている。どれも、二十年という時間の重みに耐えかねて崩れ去ったものの残骸だ。


 奥へ腕を伸ばすと、冷たい金属が指先へ触れた。角張った蓋、掌に余る重さ。煤と錆に覆われ文字は読めないが、確かな「何か」が中に詰まっているような質量が残っている。その冷たい金属の感触に、無意識に指先が顔へ向かい、無意識に指先がこめかみに触れた。あるいは、対象を凝視する際に、僅かに目を細めるいつもの癖が出たのかもしれない。私は両手で抱え出し、声を掛けた。


「先輩、この缶……まだ中が詰まってます」


 透子先輩は脚立から降り、缶を受け取る。錆で固まった蓋をぐり、とこじ開けた。金属が悲鳴を上げ、閉ざされていた空気が短く「吐息」を漏らす。

 次の瞬間、視界が、青で満たされた。


 缶の底に眠る粉末は、夜の海底を切り出したような濃度で輝いていた。光を吸い込み、返す気配がない。その「深さ」に、私は思わず息を止める。胸の奥に重い塊を落とされたような感覚――そして、青がこちらへ「伸びてくる」。目の前で、青い光が瞬時に弾けたような気がした。


 眩暈が襲い、視界がわずかに揺れた。青いノイズが奔り、他の色が遠ざかる。透子先輩が慌てて肩を支える。


「霞、大丈夫か?」


「……平気、です。けど、すごい……」


 声が震えた。青が網膜に貼りつき、まばたきしても消えない。心臓の鼓動が耳に跳ね返り、そのリズムに合わせて、粉末が微かに「脈打つ」ように見える。アトリエの床で見た、あの焼け焦げた群青の微粒が、ここに塊として眠っていたのだ。私の目に映るその青が、私の脈と同期し始めたように感じた。

 その脈動する青の粒子の中に、一瞬だけ、細い「光の筋」が走った。見間違いかと思い目を凝らすが、すぐに消えてしまう。しかし、網膜の裏には確かな残像が焼き付いた。


 透子先輩は指先で粉をすくい、白い軍手の上に載せた。粉は風もないのに静かにうごめき、粒子同士が吸い寄せられるように集まる。


「生きとるな。まるで、引力や」


 その言葉が冗談でないのは、私にもわかった。視線を粉末から外せない。色にそんな「引力」があるとは思わなかったが、今は信じられた。


 胸の奥の息苦しさがおさまらず、私は壁にもたれて深呼吸した。焦げた油絵具の匂いと、金属の錆の匂い、その奥にきりりと冷えた甘さが混じる。

「この青、セルリアンでもウルトラマリンでもない……」

 口をついて出た囁きに、透子先輩が頷く。


「ラベル、見てみよか」


 彼女は濡れた雑巾で缶の側面をそっと拭った。錆が崩れ、掠れたラベルが浮き上がる。

 Cerulean-α――かろうじて読める綴り。その下に薄く「BA–CO–As」と化学記号のような線が並んでいた。私は思わず眉をひそめる。


「見たこと、ない品番です」


「うちもない。でも残っとったのは運命やね。この、二十年もの『呼吸』が詰まった色で。壁画、こいつで呼吸させるつもりや」


 透子先輩は缶の蓋を閉め、金具をしっかり固定した。粉が少し舞い、私の袖に青い点が散った。

 ポリエステルの白布がその一点だけ深く染まり、落とそうと指で払っても離れない。布ごと色が飲み込まれる感覚。私は袖を見下ろし、胸の内がざわりと騒ぐのを感じた。私の目に映るその染みが、まるで深淵を覗き込むように、その色を増していく。


「怖いん?」


 透子先輩が静かに尋ねた。


「……いいえ。むしろ、惹きつけられてる。青が、呼んでいる気がします」


「ほんなら大丈夫や。吸い寄せられるのは才能やと思う」


 透子先輩は笑い、缶を胸に抱え込む。私は荷物運び用の木箱を引き寄せ、缶を中に収めた。鉄の底が木箱を打つ鈍い音が、備品室の闇へ響く。


 部屋から出ると、北窓の光は少しだけ強くなっていた。朝雲が薄まり、灰青の光が斜めに差し込む。その光を浴びて、箱の隙間からこぼれた青い粉が淡くきらめいた。

 私は再び軽い眩暈を覚える。しかし今度は怖くない。脈打つ青が私を通じて息をし、アトリエ全体をわずかに震わせている――そんな錯覚が妙に心地よかった。私の目には、世界が青い息吹を帯び、まるで生きているかのように見えた。


「外気に触れさせてみよう」


 透子先輩の提案で、私たちは箱を抱え北窓へ向かう。割れたガラス越しに吹き込む春風が、粉塵をゆっくり攪拌する。

 箱の蓋を開くと、缶の隙間から青がほんの少し浮かび上がった。光に溶けかけ、しかし消えない。


「生きてる音がする」


 私は思わず呟いた。もちろん音は聞こえない。それでも粉は確かに呼吸していた。透子先輩が嬉しそうに笑う。


「ほら、空気が反応しとる。これで壁は起き上がるわ」


 青の吸引力は、私の色覚を歪めながらも、どこかで優しく脈を合わせてくれる。怯えよりも、未知の世界が始まる高揚の方が、はっきりと胸を叩いた。

 私は袖の染み込んだ青を、見つめ、ゆっくり息を吐く。

 ――数値では測れない色。けれど確かに生きて私を招く色。

 眩暈は残ったまま。それでも私は、この青と向き合う以外の選択を考えられなくなっていた。

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