封印されたアトリエ
木階段は三階まで九十三段。一歩踏板を踏むたび、煤に潜んだ埃がぱらりと剥がれて靴底に貼りつく。乾いた音が響き、階段そのものが深呼吸をしているように聞こえた。
途中の踊り場で九条透子先輩が振り向き、私の眼を気遣うように細めた。
「ここから先は、窓だけが灯りや。まだ目、慣れとらんのやろ? 青色に気ぃつけてな」
声は春の雲よりやわらかく、けれど奥にかすかな緊張が潜んでいる。私は頷き、手すりを握り直した。手術後、青だけが鮮やかすぎるこの視覚――その過敏さが、これからこの場所で私に何を見せるのか、まだ想像もできなかった。
三階の廊下は短く、正面の大扉が半開きで待っていた。二十年間、この奥に時間が閉じこめられていたのだと思うと、少し息が詰まる。透子先輩がもう一度だけこちらを見る。
「深呼吸して。ここの空気、長いこと閉じこめられとったからね」
私は鼻から息を吸う。濃い松脂、焦げた油絵具、湿った煤――色が死んだあとに残る、冷たく重い匂いが肺を満たした。
扉を押し開くと、北向きの巨大な窓がいっきに視界へ広がった。横幅七メートル、高さ五。ひび割れたガラスから拡散光がじわりと流れ込み、床の煤を薄く照らす。光は弱い。にもかかわらず、床中央だけが奇妙に黒く沈んで見えた。
私は引き寄せられるようにその中心へ歩く。靴裏が木粉を踏み、わずかに沈む感触。膝をついて指でそっとすくい取ると、灰に紛れて深い青――焼け焦げた群青の微粒が潜んでいた。
同時に、視界の端で青いノイズが波打つ。脈動する光が網膜の裏側を叩き、吐き気に似た感覚が喉を刺した。周囲の色が薄れ、青だけが鮮烈に主張する。
透子先輩が駆け寄り肩を支える。
「大丈夫? 青が暴れとる?」
「……少し目が揺れました。でも平気です」
本当は平気ではない。世界が一瞬で青に染まり、他の色が隠れる。数秒後にノイズは引くが、青い残光だけが網膜に張りつき続けた。
壁へ視線を向けると、白だったはずの石膏地にひびが走り、木桟に挟まれて人影のような残渣が浮かぶ。どこかの顔、あるいはただの焦げ跡――判断できないのに、脳が「顔」と認識してしまう。あの旧棟の扉で感じた「影」の輪郭が、ここにあるように思えた。
透子先輩が足元の石膏片を拾い、私の掌に載せる。かすかに冷たい粉。その中央に青黒い芯が残り、指先で触れると淡く光ってすぐに消えた。
「二十年前に燃え残ったんやろね。色が、ここで息絶えた場所や」
透子先輩は呟き、石膏片をポケットへしまう。私は反射的に手帳を開き、震える手で言葉を刻んだ。
>―初観測:群青、脈動
>―匂い:焦げ油+湿木
>―光:北窓からの青稲妻
書き終える直後、窓ガラスのひびが朝風で鳴り、細い破片が落ちる。差し込む光線がずれた瞬間、床の群青粉がふわりと浮いた。
青が舞う――そう感じた直後、網膜にもう一度ノイズが奔った。ガラスの光が稲妻のように窓枠を走り、耳の奥でばちり、と静電気の音。
私は思わず目を閉じる。瞼の裏に鮮烈な青が残光となって燃え、鼓動と同調して脈を打った。透子先輩の声がその青の奥から届く。
「見えたやろ? まだ死んどらん色や」
息を整え、瞼を開く。ノイズはやや弱まり、かわりに胸の奥で奇妙な胸騒ぎが膨らんだ。恐怖ではない――未知の色へ触れることへの、昂ぶり。
視界が落ち着くと、透子先輩は窓際へ歩き、割れたガラス越しに外を眺めた。
「この窓、色を吸うて吐き出す機械みたいやわ。外の光で青を溜め込んで、ここで吐き出しとる」
彼女の呟きに合わせて風が吹き込み、粉塵が再び舞った。光は弱いはずなのに、一粒一粒が青を帯びて輝く。
私は壁の顔影を見上げる。欠けた眼窩は黒の奥で青く滲み、誰かの名もなく、ただ「何か」を見返していた。旧棟が私を「待っている」感覚が、ここでも繰り返される。
このノイズは始まりの合図――そう直感する。手術で得た過敏さは呪いかもしれない。けれどそれが導く先にこそ、まだ見ぬ青が息づいている。
透子先輩が振り返り、手を差し出した。
「行こか。ここからは二人で空気の色を追いかける番や」
私はその手を取り、北窓の淡光の中をもう一歩踏み出した。床の下で群青が微かに息づき、埃の粒が脈打つたびに青へ変わる。その色は数値には還元できず、ただ私の心拍に合わせて鼓動した。
――視覚ノイズは消えない。けれど今や、それは恐怖ではなく、未知の青が私の中に残した「足跡」だった。
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