第4話 記憶の裂け目
【第4章:記憶の裂け目】
春先なのにその日の空は高く、吸い込まれそうなほど青い大空が広がっている。杉林の葉の隙間から、まるで細い指のように淡い光が差し込み、苔むした地面にまだらな模様を描いている。
風が木々を揺らし、無数の葉が擦れ合う音が、寄せては返す波のように耳に届く。その心地よい音のゆらぎに、ふと、何か別のものが混じっているような気がする。記憶の井戸の底から、澱のようにゆっくりと浮かび上がってくるものがある。
……あの患者の名は、確か、村上……
六年半前、まだ都会の総合病院で内科医として責任ある立場で働いていた頃、静馬はある末期癌患者の主治医をしていた。
癌は既に手の施しようがない段階まで進行しており、延命措置をどこまで行うか、家族と連日、出口の見えない話し合いを続けている。患者本人は既に意思を明確に伝えることができず、ただベッドの上で、蝋のように白い顔をして黙したまま横たわっている。
その夜も、静馬は前夜の夜勤明けの疲労を引きずりながら、個室の薄暗いベッドサイドに立っている。モニタの青白い光が彼の顔を不気味に照らし出し、点滴の薬液が一滴いってき、無機質な輸注ポンプが作るリズムを刻んで落ちていく。ときおり、病棟の廊下から看護師の慌ただしい足音や医療機器の電子音が聞こえてくる。この一室で静馬は深海魚になったように目だけ動かして佇んでいる。
酸素マスク越しに、患者の虚ろな目が、ふいに静馬をとらえる。その瞳は、生命の光が消えかかっているにもかかわらず、不思議なほど澄んでいる。まるで、深い井戸の底から、一点の曇りもない夜空を見上げているかのようだ。そして、ほとんど動かなかった唇が、微かに、本当に微かに動く。
「もう……いいよ」と。
確かに、そう聞こえた。それは声というよりも、空気の振動、あるいは気配そのものが凝縮して形になったような言葉だった。
静馬は患者の身体をゆすって「村上さん!聞こえますか?!」と叫びたい衝動にかられる。しかし、何もせず、ただ患者のかたわらに佇み、静かに見守ることにする。
次の瞬間、心電図モニタの波形が激しく乱れ、けたたましいアラーム音が鳴り響く。心室細動が起こっている。チームの看護師たちが病室に雪崩れ込むように駆け寄って来る。患者の手はまだ生きているときのように生暖かく触れる。
「静馬先生!……AEDと挿管の準備を……!」
CPRを促す若い看護師の声が、水中で聞くように遠く、くぐもって聞こえる。
「いや、いい……このまま看取る……家族を呼んでくれ」静馬は、自分でも驚くほど静かな声で、そう指示する。
その次の瞬間、静馬の耳には、まるで時間が飴のように引き延ばされるのを感じながら、異常なほど粘り気のある静寂が満ちていく。心電図モニタ上の一直線の緑色の残像、点滴チューブの中を滑る透明な液体、酸素マスクの内側に付着した白い曇り——それらすべてが、まるでスローモーション映像のように、人工的なトンネルの中をゆっくりと通過していくように見える。そして、村上の瞳が、その全ての現象を通り抜けて、ただ、そこに在る。その瞳は、もはや何も求めず、何も訴えず、ただ静かに「通過」していく存在の、絶対的な静けさを湛えている。静馬の指先が、すでに冷たくなりかけた村上の手から、するりと離れる。その手の指先でペンライトを持ち、患者の瞳に光を当てる。瞳孔散大と対光反射消失を確認する。そして優しく両まぶたに触れて患者の目を閉じる。形式的ではあるが古典的な「死の三徴候」を確認していく。頚動脈の脈が触れないこと、聴診器で心音消失と呼吸音消失を確認した。いわゆる心肺停止状態である。静馬はちらりと時計を見たが、臨終宣告は患者家族が集まってからすることにした。静馬は、自身の呼吸がまるで風船が
結局、心臓マッサージも、気管挿管も、人工呼吸器の装着も、延命措置は何一つなされなかった。静馬は、ただ、そこに佇んで、患者の手を握り、間もなく駆けつけた家族と共に、ひとつの命が遠くへ遠くへと去っていくのを、立ち尽くしたまま、見守っていた。
……………………………………
「なぜ延命措置を何もほどこさなかったのか?」
遺族の一部からそんな疑義が上がり、数日後、病院の一室で静かな面談の場が設けられた。
生前、故人のケアに深く関わろうとしなかったことへの負い目の裏返しか——
それとも、臨終にも間に合わなかった身内の有力者が、行き場のない感情を医療にぶつけてきたのかもしれない。
その場で、静馬は可能な限り客観的に、患者の既往を振り返り、それを言語化して家族と共有しようとしている。手術後の状態、最期の瞬間、そして自らの判断について説明を試みる。彼の言葉は、無意識のうちに医学用語に縛られ、どこか他人事のように無機質に響いたかもしれない。それでも、彼はありのままを伝えるべきだと信じている。重い沈黙が流れた後、これまで何度もお会いしてきた故人の奥さんがあらたまったように静馬に頭を下げている。
すると、娘と思われる中年女性が、震える声で、しかしはっきりとした口調で語る。
「静馬先生……父はきっと、先生に感謝していると思います。最期の時の父の表情で、そう分かりました……」
彼女の言葉は、疑いようもなく純粋な善意から発せられたものだろう。静馬の胸に巣食う医療無力の罪悪感を、少しでも和らげようとする温かくそして痛ましいほどの優しさがそこにはくみ取れる。だが、その言葉は、静馬にとって無力感への慰めにはならない。むしろ、その遺族の優しさこそが、彼の胸を鋭く抉(えぐ)るように感じられる。死は誰にとっても不可避であることは分かっている。死なない人間はいない。ケアを尽くした末の覚悟の最期であったとしても、その患者の死亡診断書を書くとき、静馬は自らの不全感や無力感を自覚するのが常だった。「もっとできたのではないか?」「もっと良い選択肢があったかもしれない」と自らの中に割り切れなさを積み残してきた。これまでに、患者の立場に立つ医師を自負する静馬に対して、過度の患者への感情移入や適切な距離を保てない共感は、彼の臨床医としての致命的な弱点になる、と指摘してくれる先輩医師が何人かいた。
医師として、一体何を守ろうとしたのか。医学の名の下に、生命の尊厳を、あるいはスピリチュアル・ケアの名の下に、魂の平安を——あの時、あの場所で、一体何が本当に存在し、何が失われようとしていたのか。その問いが、まるで消えることを忘れた残り火のように、今も彼の胸の奥で
山道を漫然と歩きながら、静馬は不意に空を見上げる。雲ひとつない、突き抜けるような青さが、彼の記憶の断片と混ざり合い、目の前に広がる現実の世界を、どこか不確かで、頼りないものへと変えていく。あの患者の瞳の奥に、静馬は一体何を見ていたのだろうか。生命とともに「自己」と呼ばれるものが消え去っていくその瞬間に、そこに残されるものは、果たして何なのだろう。
「おごるでないぞ! 医者も、しょせん『通り道』よ」——いつだったか、
治療であれ、死であれ、それらは結局のところ——患者が通り抜けていく通路の名にすぎなかったのか。
医師とは、その通路の傍らを、ただ寄り添って歩むことしかできない存在なのだろうか。
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寺に戻ると、本堂の軒下の板敷きにミナが一人で座っている。膝を抱え、庭の苔むした古い石畳を、まるで何かを探すようにじっと見つめている。その横顔には、深い思索の痕が、影のように落ちている。静馬の足音に気づくと、彼女はゆっくりと顔を上げて喋り出す。
「考えていたの」ミナの声は、いつもの明晰な研究者のそれとは少し異なり、どこか脆く、ゆらぎを宿している。
「もし自己というものが、わたしたちの脳が作り出す単なる幻想なのだとしたら、わたしたちが感じる痛みや悲しみもまた、神経系を流れる電気信号のパターンに過ぎないということになる。肉体的な痛みはそれでも説明できる。じゃ、心の痛みは?社会的な痛み、孤立の痛みは?スピリチュアルな痛みもあるでしょ?……どうつながっているの?でも……幻想に操られて……それでもわたしたちは涙を流すの?」
彼女は足の
「自分が自分であることが幻想なら、わたしたちは一体何のために、こんなにもリアルな痛みを感じるの? そして、それを『考える』このわたしも、幻想の一部なのですか?」
静馬は、すぐには言葉を返せない。しばらくの間、ただ黙ってミナの隣に腰を下ろし、彼女が見つめていたのと同じ苔むす石畳に目をやる。
「痛みは……単なる電気信号かもしれない」ややあって、静馬は静かに口を開く。
「でも、もしそうだとしても、その信号は……時に『私』を超えて、世界そのものが痛んでいるようにも感じさせる」
ミナは小さく頷き、再び目を伏せる。彼女の白い頬に、感情の微細な起伏が、まるで水面に落ちた雫が作る波紋のように、静かに揺れて見える。彼女の内側で何かが震え、共鳴しているのが、静馬にも伝わってくる。
「かつて僕が主治医をしていた村上さんという患者がいてね……」
静馬は、まるで独り言のように、不意に言葉を紡ぎ始める。
「彼の最期に、彼が何を見ていたのか、僕には今でも分からない。医学的に言えば、心臓が停止し、脳の活動が不可逆的に失われていくだけの、物質的な過程だったのでしょう。でも……」
言葉が途切れる。その先は、言葉では容易に表現できない領域に属する。しかし、その沈黙の中で、二人が言葉を超えた何かを確かに共有しているという認識はあった。
(つづく)
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