第3話 空の器に風が吹く
【第3章:空の器に風が吹く】
小春と別れたあと、
少女の言葉が、まだ彼の胸の内で反響している。「からっぽになる遊び」——その無邪気でありながら、どこか本質を突いた表現が、彼の心に小さな風穴を開けたようだ。
夕食後、彼は部屋に戻り、ミナが貸してくれたメッツィンガーの本を手に取る。今朝の坐禅堂でのエピソードで、彼は自分の頭の中にうろのような余白ができた気がした。そこに何かが入り込み引っかかっているようにも感じていた。その違和感にも推されて、彼は本のページをゆっくりとめくり始める。そのうち、何かに取り憑かれたかのように、ページをめくる手が早くなっていく。
ふと、彼はスーツケースから久しぶりにノートを取り出し、備忘録として日記風に綴り始める。日付を記し、思考を形にしていく。
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3月12日 夜
メッツィンガーは言う—「自己は幻想だ」と。
「自己とは、意識によって生み出される情報トンネルである」と。
その理屈は、どこか筋が通っている。確かに、私たちが「私」と呼ぶものは、輪郭を曖昧にしながら、何度も解きほぐされ、編み直されている。
「私」や「自分」は、脳が作り出すモデルであって、それに実体はないというのも、ある意味では納得がいく。
だが、それを単なる認知モデルとして片付けてしまうには、私の中にはまだ抵抗がある。そもそも「自己」が「私」や「自分」とどう違うのか?(とりあえず同類として扱う)
今日、坐を組んでいる最中に感じたあの痛みや痺れや冷えを体験していたのは、他ならぬ「私」である。
ざらついた過去の記憶が呼吸に乗って浮かび上がってきた時、それを体感している主体を「私でない」と簡単に言い切ることはできなかった。
幻想だとしても、それを「感じている誰か」が、この身体の中に居たのは、まぎれもない事実だ。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とは違う。理性ではない。
それは、言葉になる以前の「私」であり、思考の背後に沈む気配そのものだった。それを「自己」と呼んでも良いではないか。
あらためて思う。
もし「自己」が幻想だとしても、その幻想のなかで「誰かを思い、誰かの死を悼む」ことは、幻想以上の重みと現実を持っている。
今、私はふとフーコーの言葉を思い出している。彼が語った「生の技法」—生き方の技術—。それは、「自己を作る」ことではなく、「答えのない問いとつきあいながら、生き方に『かたち』を与えていく態度」だ、と思える。
メッツィンガーのトンネル理論が「自己とは脳が生成する構造」だとするなら、フーコーの「生の技法」は、「その構造にどう応答するか」という倫理的実践なのだろう。
つまり、私にとっての「自己」とは、ただ脳内の情報処理である以前に、語る・黙る・思い出す・受け取るといった行為の場として現れる。
その場において、言葉もまた生の一部となる。
その場のことをメッツィンガーは「透明な自己モデル」と言っているのだろうか。
私は、患者の最期に何度も立ち会ってきた。
言葉にならない声、
閉じないまぶたの震え、
肌に伝わる沈黙の質感。
あれを幻想だと片付けるのは、たとえ科学的に正確でも、人間的には不正確だ、と思う。
語ること。書くこと。黙っていること。
すべてが、「この私」という不確かな通路の中で、世界をどう通すかという生き方の技術に他ならないのかもしれない。
私はまだそれを「生の技法」と呼ぶほどには達していない。
だが今日、坐禅を組み、偶然にも小春という少女の問いに出会い、ただそこに居たことで、私は「私」としての通路に、一瞬、風が通ったのを感じた。
言葉にならない声があるなら、その声の持ち主の存在を信じたい。たとえ、その透明な声の主が「幻想」だったとしても。
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静馬はペンを置き、書き終えたノートを眺める。自分の違和感や思考を文字にすることで、何か形のないものが「かたち」を得たような気がする。窓の外を見ると、もう夜は更け、山の稜線は闇に溶け込んでいる。冷たい夜気が窓ガラスに結露し始めている。星々が、まるで遠い記憶のように、冬の名残りを宿しながら一つひとつ色を異にして瞬いている。
静馬は、ほぼ読み終えたメッツィンガーの本を閉じ、卓上に置き直す。明日は、また坐禅がある。そして、もしかしたら、あの小春という少女にも会えるかもしれない。
ミナとはどんな話をしようか。そんなことを思いながら消灯する。布団に入っても体の芯にはまだ冷えが残り、しばらくは温まらない。それでも、今日という日が彼の中に確かな痕跡を残したことを感じながら、彼は目を閉じた。
(つづく)
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