第3話 交渉前夜
昼休み。
屋上のドアを開けると、春の風がふわっと頬を撫でた。
教室のざわめきから逃げたくて、僕はいつものように、購買で買った照り焼きチキンパンと牛乳を手に屋上へやってきた。
壁にもたれて、ひと口かじる。
パンの甘辛いタレが指に染みるたび、なんとなく、それを舐めながら空を見上げる。
今日もきっと、何も起きない――そんな風に思っていた。
「やっほー、また来てたんだ!」
明るい声とともに、彩音がひょいと扉の影から顔を出した。
「……また、って?」
「最近ずっとここでお昼してるじゃん。だから私も来ちゃった。お邪魔だった?」
「い、いや……むしろ、なんで知ってるのか気になるんだけど……」
「ふふ、気づかれないように見てたの!」
「いやそれはそれでちょっとこわいな!?」
彩音はカバンからランチパックを取り出して、僕の隣に腰を下ろす。
少しだけ狭くなった屋上の端っこに、春の風がふたたび吹き抜けた。
「ねぇ、“士農工商”ってさ、なんかスゴくない? “しのうこうしょう”だよ? ほぼ“死のう交渉”って読めるじゃん?」
「うん、何回目の話題かなそれ……?」
「でもさ、“交渉”って響き、なんか……恋みたいじゃない?」
「え?」
「話し合うことでさ、命かけてわかり合おうとするって……告白みたいじゃない?」
彩音がぽつりとそんなことを言って、僕は手に持っていた牛乳を落としそうになった。
「……え、今、何?」
「え? 何が?」
「いや、今、なんか……ドキっとするやつ、言ったよね?」
「え、あ、ほんと? わかんないや〜」
無邪気な笑顔。ほんとにわかってない。
いや、わかってないふりか……?
僕の脳内が「考えるな感じろ」と「感じるな考えろ」でせめぎ合っていると――
「ほう。“交渉”を恋に例えるとは、拙者、少し感心したでござる」
背後から、竹刀の音とともに登場する凛。
なぜ彼女は毎回“締めの一句”みたいに入ってくるのか。
「まるで、愛が戦(いくさ)であるかのような言い回し――しかし、恋もまた、真剣勝負でござるな」
「えっ、ちょっと待って凛さん、それ恋の話に乗ってくるタイプだったっけ?」
「話は選ぶ。だが、交渉と聞けば、黙ってはいられぬ。何より――」
凛はチラ、と僕を見た。すぐに目をそらす。
「……貴殿は、交渉の相手を誰と定めておるのか、気になるでござる」
えっ……今のって……
でも確認する前に、彩音がくるっとこっちを向いた。
「ねぇ、二人とも、恋とかしてるの?」
突然すぎる直球に、僕も凛も固まった。
「ぼ、僕は……その……」
「拙者は……恋など、浮ついたものには……」
(でも目が泳いでるよ凛さん!)
「そっかー、二人とも鈍いなぁ。私はね、恋って、話し合いの延長だと思うの」
「延長……?」
「うん。“好き”っていうのも、ちょっとずつ伝えて、返ってきて、また伝えて……って交渉じゃん? で、もしうまくいかなくても、命までは取られないし!」
「例えが極端だよ!」
「でも、だから怖くないの。告白って、“死のう交渉”じゃなくて、“生きよう交渉”かもね!」
一瞬、風が吹いた。
彩音の言葉が、意外にも胸に残った。
隣では、凛が小さくうなずいていた。
「……なるほど。恋は、生きるための交渉。ならば拙者も――一戦、交える覚悟でござるな」
「え、マジで?」
「では、いずれ勝負の場で。抜かぬなら、拙者が抜かせるまででござる」
その視線が真っ直ぐすぎて、僕は少し、目をそらした。
◆
放課後、帰り道。
彩音がふと立ち止まり、こちらを向いた。
「ねぇ、私って、誰かと“交渉”できてると思う?」
「えっ……それは……」
なんて答えればいいのか、わからなかった。
でも、ひとつだけ言える。
「たぶん、君はもう……いろんな人の気持ちを、ちゃんと動かしてるよ」
彩音はきょとんとしたあと、笑った。
「それって、うまく交渉できてるってことかな?」
その笑顔がまぶしくて、僕はまた、答えに詰まってしまった。
――恋の交渉は、たぶんまだ始まったばかりだ。
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