煉獄編 第四歌 —闇に燕は飛ぶ―(4)

 京都・池田屋。

 怒号と刀声が交錯する修羅場を、ひとりの男が駆けていた。

 屋根の上へ、闇を裂いて逃れるその男の手には、血に濡れた刀。

 吉田稔麿――吉田松陰の門下生にして、長州志士の中でも俊英と謳われた男である。


 刀傷はすでに幾筋も負っていた。仲間たちは次々と倒れた。

 宮部鼎蔵も、北添佶摩も、あの混沌のなかに取り残された。

 しかし、吉田は逃げねばならなかった。生きばならぬ理由があった。


 ――ここで朽ちては、彼らの理想は十年は遠のく。

 今日の会合では桂小五郎がたまたま席を外していた、それが唯一の僥倖。だが、桂だけに託すには危うい。

 高杉晋作は常に一か八かの博打打ち。久坂玄瑞は優秀だが激情家だ。どちらも自分のような男が側にいてやらねば危ない。


 「生きねば……!」


 己を奮い立たせ、屋根を伝う吉田の行く手に、二つの影が現れる。

 月明かりに浮かぶ隊服。それは、見る者を戦慄させるあの色と模様――新選組。


 「何者か!」

 吉田が叫ぶ。


 影のひとりが静かに名乗った。

 「新選組副長、土方歳三……」

 続いて、鋭い眼差しの男が一歩前へ。

 「三番隊組長、斎藤一」


 間合いを測るように、吉田は腰を低くする。手練れだ。逃げ切るには、斬るしかない。

 その時――


 「邪魔だ……」


 背後に不気味な声が響き、次の瞬間、稲妻のような一閃が吉田の背後から奔った。

 斬撃は肩口から脇腹までを断ち割り、吉田稔麿の身体は血飛沫と共に崩れ落ちる。


 長州を日本を、彼が命をかけて背負おうとした志。それは、一振りの刃に断たれた。

 そこに立っていたのは、陣羽織を着た長身の男。蒼白い顔に、異様なまでの静けさと殺気が漂う。


「土方さん、こいつやりますよ」


斎藤の声も堅い。一太刀で相手の技量を見抜いている。


 「貴様……何者だ」

 半ば正体を察しながらも、土方が声を絞る。


 男は唇の端をわずかに上げた。

 「柳生と引き分けたと聞く。貴様が土方か。楽しませてもらうぞ」


 剣鬼・佐々木小次郎。

 かつて宮本武蔵と死闘を繰り広げた、伝説の剣士。

 だが、その実態は、蘇りし影法師――時を超えた化け物である。


 「化け物め……!」

 土方が叫び、斎藤も構える。


「歳!斎藤!」


 その場に、さらに二つの気配が現れる。

 屋根の瓦を渡って走ってきたのは、近藤勇と永倉新八。

 四方を囲む形で小次郎を挟む新選組の主力たち。


 「沖田はどうした!」

 沖田がいないことに気づき、土方が叫ぶ。最悪の考えが脳裏をよぎった。


 「こいつと戦って手傷を負った。だが、生きてる……はずだ」

 近藤が答える。だが、その表情に曇りがある。


「そうか……生きて帰れると思うなよ。化け物」


 近藤の返答に一瞬だけ安堵しつつ、土方は小次郎へ殺意を向ける。


 小次郎はそれを春風のように受け流しつつ、周囲を見回す。近藤、永倉、土方、斉藤。それぞれの顔を眺め、技量を図るように。


 しばしの沈黙。そして、小次郎は何かを思いついたのか顔をほころばせた。


「?」


 小次郎は血まみれの吉田の刀を拾い、柄を確かめ、構えを変える。


「ふむ、使えそうだ」


 そういうと、小次郎は右手に長刀、左手に吉田の刀を持ち、左右へと両手を広げた。

 二刀流。――かつて自分を倒した武蔵の流儀。


 「悪くないな。気に入らんが……」


 構えたその姿は、まるで鵬のごとく大きく、切っ先の先に立つ者をすべて討ち払う威圧があった。

 分が悪いのは小次郎のはず。だが、誰も斬り込めない。空気は凍り、静寂が訪れる。


 その時――


 「……!」


 近藤の肩に、誰かの手が触れる。

 振り返れば、そこには血に染まった沖田総司。

 胸に深い傷を負い、唇から血を滴らせながらも、その手には刀がある。


 まるで死人が立っているようだった。

 だが、その眼は死んでいなかった。


 「言ったはずですよ。私がやると……」


 沖田が前へ出る。

 近藤を押しのけ、一歩、また一歩。


 小次郎はその姿に、ほんの一瞬、驚きの表情を浮かべ――

 次に、口元をほころばせた。


 「面白い……!」


 夜はまだ明けない。

 だが、夜明けよりも鋭く、静寂を斬る戦いが、いま始まろうとしていた。

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