煉獄編 第四歌 —闇に燕は飛ぶ―(3)
板を踏む足音が、静まり返った廊下に響いていた。闇の中で交差するふたつの眼差し。佐々木小次郎、その金色の瞳が、怒りと共にぎらりと光を放つ。
「小次郎、やぶれたり」
沖田総司が、いたずらっぽく口元をゆがめて呟いた。侮辱ではない。ただの挑発でもない。真剣勝負の中にこそ咲く、あどけなさと残酷さを併せ持った一言。
怒気が走る。小次郎の瞳がさらに深く輝きを増し、体が微かに震える。沖田は、それを見逃さない。冷静を崩す。それが唯一の勝機。
小次郎の膨れ上がっていく剣気を感じつつ、沖田は呼吸を必死に整える。胸の奥から湧き上がる、焼けつくような熱と咳を必死に抑え、中段よりさらに低く、剣を構える。
喀血した夜のことを思い出す。医師が告げた病名は、沖田の命に終止符を打つ音にも似ていた。――だが今はまだ、倒れるわけにはいかない。敵は、あの佐々木小次郎。命を削ってでも、勝たねばならぬ。
一方の小次郎も、内心で己を戒めていた。数百年前、あの宿命の巌流島での敗北が脳裏をよぎる。沖田総司は、あの宮本武蔵に並ぶか、それ以上の剣士かもしれぬ。屋内戦、長刀に不利。小次郎は自然と構えを低くする。それは、奇しくも沖田のそれと酷似していた。
見守る近藤勇らが、今にも駆け出さんと身を乗り出す。しかし、両者の殺気がそれを許さぬ。空気が張りつめ、時が止まったかのような静寂。豪胆な近藤の額にも、冷や汗が一筋流れ落ちていた。
「加勢はせんのですか?我々3人ならば……」
永倉の言葉に近藤は首を振る。むろん、助けには行きたい。しかし、池田屋に入るまえに総司と約束した。それがこの剛直な男には何よりも重かった。
沈黙を破ったのは沖田だった。電光の如き突き――胴を狙う試衛館伝来の得意技。小次郎は後退し、それを躱す。が、沖田の剣先は胸へと軌道を変える。さらに後退――しかしそれも読んでいた沖田の突きが、喉元を正確に狙う。
「三段突き! 決まった!」
近藤が思わず叫ぶ。その声が座敷を震わせた直後、沖田の体がのけぞる。
――罠だ。
小次郎の後退は、沖田を自らの間合いに引きずり込むための布石。床すれすれを走っていた物干し竿のような長刀が、鋭く跳ね上がる。
沖田の意識は小次郎の喉へと集中していた。意識の外からの一撃など、感知できるわけがない。
血飛沫。沖田の胸が裂け、口から血を吐きながら膝を折る。
「す……すごいや……何をされたのか。まだわかんないや」
かすかに震える唇。小次郎が静かに目を伏せる。
簡単に見えるが、並の人間にできることではない。己の身へ迫る剣先を前に、自身の剣を殺気ごと隠す。常人ならば反応してしまうところだが、それを押さえつけ、鶺鴒の尾のごとくハネあげる。絶技と言える。
「
鋭く、しかしどこか哀しげに語る声が、その場に残響を残す。
「武蔵に使うための技であったが……これを使わせた己の技量を、誇れ、沖田」
瀕死の青年を見下ろし、小次郎は静かに背を向ける。その足取りは重く、勝者であるにもかかわらず、どこか打ちひしがれたようでもあった。
「とどめは刺さないんですか?私は生きていますが……」
「必要あるまい。勝負はついた……」
沖田の言葉に答えるときも小次郎は振り向かない。二階座敷へと姿を消していくのを見送り、その場に残された沖田の瞳は、屈辱に濡れながらも、なお燃えていた。
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