【第3話】悪女?砂耶編『理想主義の華麗な毒舌』
翌朝の黄昏学園は、昨日の初日とは違い、早くも日常が訪れ始めていた。朝日が薄い雲を突き抜け、校舎の窓ガラスに反射し眩しい光を放っている。教室の扉を開けると、すでに生徒たちが賑やかな話し声を交わしていた。クラスの雰囲気は、一晩明けただけで随分と馴染んだように見え、昨日は遠慮がちだった話題や笑い声も今日は堂々と響き渡っている。だがそんな中、俊輔の耳に一際目立つ鋭い声が飛び込んできた。
「まったく、理解できないわ。その格好で恥ずかしくないの? ファッションセンスが悪いというより、もはや環境汚染ね」
教室の真ん中で、砂耶が堂々と腰に手を当て、クラスメートに容赦なく毒舌を放っている。その言葉はナイフのように鋭く、周囲の生徒たちは思わずひるんでいた。毒舌を浴びせられた生徒は、恥ずかしさで顔を真っ赤に染め、慌てて制服を整えている。砂耶は容赦なく続けた。
「人間、見た目がすべてとは言わないけれど、少なくとも見苦しくないようにするのは最低限のマナーよ。自分を客観的に見てみたら? それとも家に鏡がないのかしら?」
俊輔は眉をひそめながらも、少し離れた席から彼女の姿を眺めていた。砂耶は見た目だけなら完璧な優等生だ。きれいに手入れされた長い髪、制服も隙がなく整えられ、姿勢も凛としている。その整った容姿とは裏腹に、彼女の口から飛び出す言葉は劇薬のように刺激的だった。
昨日の自己紹介でも、砂耶の毒舌は際立っていた。「私は砂耶。異能は『真実の言葉』、嘘や建前を許さないことね」と彼女は自信たっぷりに言い放った。周囲は唖然とし、教師も困惑気味だったが、彼女の異能が具体的に何を意味するのか、まだ誰も正確には理解していなかった。俊輔は面白がりながらも、その毒舌の背後に何かがあるのではないかと感じていた。彼女は理想主義者であり、その理想を守るために他人に厳しくなっている――そんな予感がしていたのだ。
「砂耶ちゃん、ちょっと言い過ぎじゃない?」
クラスの女子が恐る恐る口を開いたが、砂耶は視線を冷ややかに向けるだけだった。その視線はまるで氷のように鋭く、少女は言葉を呑み込んでしまう。だが、砂耶の毒舌は単なる嫌味ではなく、彼女なりの正義感の現れのように見えなくもなかった。彼女の基準では「正しく美しくないもの」に容赦がないのだろう。
俊輔は面白そうに彼女の言動を眺めていたが、やがて砂耶の視線が俊輔を捕らえた。彼女の唇が弧を描き、瞳が怪しく輝く。
「あら、そこにいるのは昨日堂々と規律を破った俊輔くんじゃない? 入学初日から堂々と教師に反抗するなんて、勇気があるというより無謀ね。まるで反抗期の小学生みたい」
俊輔は苦笑しつつ、座っていた椅子からゆっくりと立ち上がった。教室の視線が一気に二人へと集中する。周囲の生徒たちは何が起こるのか期待と不安を含んだ表情で見守っていた。砂耶はさらに続ける。
「あなたのその自由気ままな態度、周囲には面白がられるかもしれないけれど、結局はただの自己満足じゃない? 規律が嫌いだから破るの? それとも、規律を守る能力が欠けているから破るのかしら?」
クラスは静まり返り、俊輔と砂耶だけが静かに対峙している。俊輔は彼女の言葉に怒るどころか、むしろ愉快そうに微笑んだ。そんな俊輔の反応に砂耶は微かに眉をひそめ、不満げな表情を浮かべる。
「……何か言い返したらどう?」
砂耶が苛立ちを隠さずに促すと、俊輔は肩をすくめて軽く息を吐いた。
「いや、別に。君の言ってることは間違いじゃないよ。でもさ、みんな君ほど完璧にはなれないだろ。それに、ちょっとぐらいダメなところがあった方が、人間らしくて魅力的だと思うけどね」
俊輔の言葉に、教室は微かにどよめいた。砂耶の完璧な論理に対して、俊輔はゆるくて曖昧な言葉で反論したのだ。それは砂耶が最も嫌うタイプの返答だった。彼女の目が厳しく細められ、俊輔に向かって鋭い視線を投げかける。
「あなた、本当に甘いわね。そうやって自分を甘やかすから、人生で大事なことを見落とすのよ。中途半端な優しさなんて、誰も救わない」
俊輔は静かに砂耶を見つめ返した。彼女の瞳には明らかな怒りや苛立ちが浮かんでいたが、どこか痛々しくもあった。その怒りは彼女自身にも向けられているのではないか、と俊輔はふと思った。彼女の理想主義の背後にある何かが、徐々に見えてきた気がしたのだ。
教室の空気は張り詰めたままだったが、その時、突然チャイムが鳴り響き、二人の緊迫した対話は途切れた。砂耶は苛立ちを隠すようにため息をつき、自分の席へ戻っていった。
俊輔はぼんやりと席に腰掛けながら、彼女の後ろ姿を見つめる。砂耶の毒舌は確かに激しかったが、その奥にある理想と弱さを垣間見たような気がして、胸の奥に奇妙な感情が湧き上がっていた。
その日の昼休み、俊輔は購買で買った揚げパンを咀嚼しながら校舎裏のベンチに腰掛けていた。風が頬を撫で、桜の花びらが一枚、彼の肩にひらりと落ちる。見上げた空はよく晴れていて、のどかな日和そのものだったが、教室での毒舌劇場を思い出して、どうにも笑いが込み上げてくる。
「ふっ……あれは華麗だったな」
口にくわえた揚げパンの端を咀嚼しながら、俊輔は砂耶の表情を思い返す。容赦なく毒を吐きながらも、彼女の目の奥には何か切実なものがあった。それは多分、彼女自身が理想に届かず苦しんだ過去の名残か、あるいは誰か大切な人を“理想”で守ろうとして傷ついた経験の痕跡か。
「ま、知ったこっちゃないけどさ」
俊輔がぽつりと呟いたそのとき、不意に頭上から声がした。
「やっぱりここにいたのね。自由人らしいわ」
見上げると、そこには例の“毒舌の女王”こと砂耶が、手にクロワッサンを持ったまま仁王立ちしていた。整った制服姿、整髪剤で整えられた前髪、歩く姿さえ型に嵌っているように見える。だが今の彼女の眉間には、あからさまな苛立ちが刻まれていた。
「……なに? また文句? 『揚げパンは炭水化物の暴力だ』とか?」
俊輔が口元を拭いながらニヤリとすると、砂耶はわざとらしく深いため息をついてから彼の正面に座り込んだ。
「違うわよ。ただ、話し合いたいだけ。あなた、私の言葉にあんな態度を取ったの、初めてのケースだったから」
「へえ。じゃあ、記念日だな。祝ってくれるの?」
「皮肉の使い方が甘いわね」
俊輔と砂耶、毒と無秩序の邂逅だった。だが不思議なことに、彼女は怒っているわけではなさそうだった。むしろ、目の奥にはどこか探るような色がある。
「あなた、自分の矛盾に気づいてる?」
突然の質問に俊輔は目を細める。
「矛盾?」
「そうよ。規律を破りたがるくせに、クラスの空気を壊さないように笑ってる。相手を挑発するのに、ちゃんと引き際を見てる。反抗するならもっと徹底的にしなさいよ。中途半端な優しさで逃げるなって言ってるの」
俊輔は黙ってパンの最後のひと口を飲み込んだあと、少し考え込むように目を伏せた。
「……そうだな、確かに俺は中途半端かもな。だけど、俺にとっては“それでちょうどいい”んだよ。全部壊しちまったら、後に残るのは後悔だけだろ? 自分で後悔しない範囲で、好き勝手やる。それが俺のバランスなんだ」
砂耶の目がわずかに見開かれた。それは彼女の“正しさの基準”に、初めて明確な異論がぶつけられた瞬間だった。
「後悔……ね」
砂耶はぽつりと呟いた。そして、それ以上は言わなかった。俊輔はあえて何も聞かず、沈黙のまま空を見上げた。
しばらくして、彼女は立ち上がった。その動きはいつものように凛としていたが、どこか柔らかさがあった。俊輔はその後ろ姿を見送りながら、さりげなく声をかける。
「俺さ、思うんだ。あんたは人に厳しいんじゃなくて、“誰か”に似せようとしてるんじゃないかって」
砂耶の背がぴたりと止まった。彼女は振り返らないまま、静かに言った。
「……もしそうなら、その“誰か”は、すごく格好良い人だったんでしょうね」
それだけ言い残して、砂耶は歩き去っていった。俊輔は口笛をひとつ吹いて、背もたれに体を預けた。
「悪女って言われてるけどさ……あれは、たぶん“守ってる”んだな、何かを」
悪女と称される砂耶。その毒舌の裏に隠された理想と痛みは、俊輔の中に静かな興味として残り続けた。
そして彼はふと思う。理想を追いすぎる彼女が、いつかその理想の重さに潰れないように。あるいは、自分が少しでもその理想の“横にいる存在”になれたら、それはきっと――。
次の授業のチャイムが鳴る。俊輔は立ち上がり、ベンチの下に落ちたクロワッサンの包みを拾い上げて教室へ向かって歩き出した。笑顔の裏に毒を持つ少女と、規律を破ることで自由を追う少年。その距離は近づいたようでいて、まだまだ遠い。
それでも、春は始まったばかりだった。
(第3話『理想主義の華麗な毒舌』完)
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