第3話 私の人生は私のもの
――それだけは許さない!
将典の怒りが身体から彩気を放出させる。
水面に石が落ちた時に起こるさざ波のように、彩気が広がり、反射して、無数の波で空間が満たされる。
表示されたままだった「憑依しますか?」の文字が砂嵐のように乱れた。
「彩気」。気力とも、皇国の外では魔力とも呼ばれる力。武士が武士であった理由の2つの力、剣術と気術を扱うための根源の力。
この力が、将典が澤渡家18代目当主である理由の1つである。そして、叔父千里が澤渡家から外された理由は、彼がこの力を扱えなかったから。
彩気が目に見えない将典の拘束を破壊し、さらに崩れ落ちた身体を再構築する。
「なんだ?」
ようやく、男は空間の異常に気づいたようだった。
が、もう遅い。
将典の彩気が空間を掌握する。
乱れていた「憑依しますか?」の文字が消えた。
光がない虚無の空間なのは変わらない。
けれど、耳慣れない音楽はかき消えて、代わりに海岸に打ち寄せる波の音が聞こえるようになった。
故郷、滄州の海岸の波の音。
その音が、幼い頃に母と一緒に磯遊びをしたことを思い出させる。潮の香りがした気がした。
目を閉じ、怒りで泡立っていた心を落ち着かせる。
そして、閉じたまぶたの裏に思い出を一瞬だけ描くと、目を開けた。
辺りを見回す。
――理屈は分からないが、この空間を支配下に置いたようだ。
再構築した身体を動かして、動きを確認する。
肩を片方ずつ回す。首も回し、右手を眉間にやり、しわの深さを確認すると、顔をしかめた。
わずかに肩もすくめる。
そして、見知らぬ男と相対する。
二人は同じ洋装姿ではあるが、似ても似つかない。片や暗褐色の背広姿。片やデニム生地のパンツと、上はシャツ一枚。
「なんなんだ? クソ、動けない! 動かねー!!」
先程の将典と同じように、今度は男が拘束されている。
そんな男の視線が将典を捉え、目を見開いた。
「お前! 澤渡か! どういうつもりだ! なんで、お前がいるんだ?」
――さて、どうするか。
将典の蒼い瞳は冷静に男の様子を観察する。
「お前がしたのか? クソっ! 放せ! 放せよ!」
男の足がもう崩れ落ちている。
「聞いていない! 聞いていないぞ、こんなこと!」
男も身体の崩壊に気付いたようで、顔をひきつらせた。
「俺はゲームの世界で好きに、自由にできるんじゃねーのかよ! あっちでは俺はもう死んだんだ。だったら、ゲームの世界で生きたっていいじゃねーか! くそ! こうなるんだったら、そばにいた誰かを代わりに引きずり込めばよかった。そうすれば、俺は死なずにすんだ!」
――この男は自分のことしか考えないのだな。
――誰かのために何かするなど、考えたことすらないのかもしれない。
――……哀れな人間だ。
「そうだ! 澤渡、お前の身体を使わせてくれ! そうしたら『悪役令息』なんて、つまらないお前の人生から、俺が解放してやる! ゲームの知識は全部持ってる。簡単な話だ。なあ、良い考えだろ!」
そうこうしているうちに、男の手まで崩れ始める。
「ちょっと待てよ! 待てってば! 助けてくれ! 俺、子供の頃からパティシエになるのが夢だったんだ。自分の子供に菓子を作るのが夢なんだ。夢を叶わさせてくれよ。頼むよ! なあ!」
将典は、男の知識から「パティシエ」が先程心を動かされたスイーツを作る者を指すと気づき、男に利用価値を見出してしまう。
けれど、涙を流して懇願する男の目を見る。その瞳の奥に潜むものを。
溜息をつきたくなった。
奥底にあったのは底意地の悪さ。隙あらば足を引っ張ろうとする企み。
哀れを装い、他人の情を利用して生き延びようとする大人たちを、将典はこれまで何人も見てきた。
最近も見た。横領で解雇した男だ。
「お前は先程何を口にした? 『つまらないお前の人生』? 『俺が解放してやる』? そのような言葉を口にした者を誰が信じる?」
「……」
「私の人生は私のものだ」
拒絶された男の身体で残るのは頭と肩先だけ。
「え? ちょっと待てよ! 待てってば! 待て! 待て! 待て!」
死への恐怖にかられたのか、男は狂ったように泣き叫んだ。
「やだ! 死にたくない! 死にたくない!」
そんな男の様子を将典は冷ややかに見つめる。
「……魔獣に傷つけられ、助かる見込みがない民に最後の情けをかけるのも武士の務めと聞く。状況は異なるが、ここから回復させる術は知らない」
軽く目をつぶると、
「……これも情けか」
彩気を振るう。
凝縮した彩気が実体化して、水となる。
水は将典にとって親しみ慣れたもの。故郷、滄州の州都は水の都。水は人々の渇きを癒し、育む。そして時に、牙を剥く。
水が男の身体を包み込み、氷となった。
氷の中で目を見開いた男と、将典は目が合う。視線をそらさない。
ピシッ
氷の塊にひびが入ると、次の瞬間、粉々に砕け散った。
男がいた場所に氷の粒が広がる。
その様を将典はじっと見つめた後、束の間、目を閉じて、黙祷をささげた。
目を開くと、
――空間が壊れ始めている。
波の音がいびつになり始めていた。
何もない空間に割れ目が入り、そこから一筋の光が差し込んでくる。
――まるで、滄州の浜辺で見た夜明けのようだ。
けれど、その感慨はすぐに崩れてしまう。
空間の割れ目は広がり、差し込んでくる光が歪む。歪んだ光は禍々しい。
感慨を消し去られ、不吉さを暗示するような光景に、将典は眉をしかめた。
――あの男、とりあえず「愚者」と名付けるとしようか。
――あの者は玄悔和尚が敵役だと言っていた。
――誰に対する敵だ? 和尚は何のために敵として立ちふさがる?
「戯言だ」と心の中で吐き捨て……かける。
悪意に満ちた表情を浮かべた玄悔の真に迫った映像が、将典の記憶にある柔和な表情を逆に「作り物だ」と咎めてくる。
加えて、「なぜ、私は甘い物を食べることを我慢していた」という疑問が、さらなる疑問を浮かび上がらせた。
――私が玄悔和尚に操られているとも言っていた。
――どういうことだ? 私が操られている?
浮かんできた疑問の数々に答えを出す余裕はない。空間が壊れ始めている。
――完全に壊れると現実に戻るようだ。
将典は思索を止めて、完全に壊れる前に、虚空に向かって話しかけた。
「さて、母上」
別れの言葉を口にする。心の中にある願いを振り払って。
「再会できるのは、残念ながら、まだ時間が必要なようです」
――私は澤渡家18代目当主。
重圧を今一度背負い直す覚悟をする。
「あの世から、私が『良き貴族』となる様を見守っていてください」
ただし、心の中にあるもう1つの望みは言葉にしない。「愚者」から手に入れた知識は将典の中に残っている。その1つが理屈では説明のつかない欲求となって、将典の心を突き上げてくる。
――甘い物が食べたい。
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