第6話 名人語る

  夜が明けた頃、祖父・柳亭文翁(りゅうていぶんおう)は支度を終えていた。

 袴に着替え、古びた羽織を羽織る。背筋を伸ばしたその姿には、老いの影がありながらも、かつて「語りの名人」と呼ばれた風格が残っていた。

 「じいちゃん、本当にやるのか」

 哲也の問いに、文翁は穏やかに笑う。

 「あれと話すのは、実に久しぶりじゃ」

 まるで昔の舞台にでも立つかのような口ぶりだった。けれど、その手には数珠と、高座でいつも使っていた扇子。

 「饅頭様は、語られたときだけ姿を結ぶ。そのとき、聞いている者に取り憑く。だから、語るなら、語りの技術だけではだめだ。“恐怖”に勝たねばならん」

 文翁は軽く咳き込みながらも、微笑を崩さなかった。

 「わしには、まだ少しだけ、その資格が残っとる。だから、おまえは来るな」

 その言葉を残し、文翁は一人、稽古場へと向かった。

 

* * *

 

 そこは、かつて家族の落語の稽古にも使っていた古い離れだった。

 誰もいないその場所に、文翁は一人で座布団を敷き、座った。

 蝋燭の灯が一本、かすかにゆらゆらと揺れる。

 そして、文翁は語り始めた。

 「さて、おなじみの噺ではございますが……今日は、ひとつ、怖い話をひとつ——」

 淡々と始まる語り。声に震えはない。だが、その空間の空気は、明らかに変わっていった。

 ぬるりとした湿気。どこからともなく漂う、饅頭の甘い匂い。

 ——語っては、いけない。

 それは、空耳か。いや、明らかに存在する“聞き手”がいた。

 「それでも男は言いました。『あっしはね、怖いものがございまして……それは——饅頭でござんす』」

 突然、畳の隙間から、どろりと何かが湧き出す。黒い、重たい、饅頭の“皮”のような何か。

 文翁は臆せず続けた。

 「さて、その饅頭というものが、どれほど恐ろしいかと申しますと……」

 その瞬間、空間が裏返った。

 畳の裏から無数の“耳”が生え、文翁の語りを聞き始める。

 畳に、壁に、天井に、数えきれぬ“饅頭の目”が開いた。どれもこれも笑っている。にちゃにちゃと笑って、文翁の語りに吸い寄せられていく。

 語れば語るほど、怪異が濃くなる。

 それでも、文翁は続けた。

 「語って……封じる。それが、わしの役目じゃ……!」

 震える手で扇子をとる。護符が音を立てて燃え上がり、黒煙の中から“顔”が出た。

 饅頭の皮を被った、巨大な“顔”。その笑みは、泣いているようでもあり、笑っているようでもある。

 「おまえ……また来たのか」

 声が、祖父の頭の中に直接響いた。

 「もう一度、封じに来た。……この子らを守るために」

 饅頭様の顔が、ゆっくりと文翁に近づいてくる。香ばしい、あまりにも甘く、懐かしい香り。

 「おまえは……語る者ではない。ただの喰われる者だ」

 次の瞬間、祖父の手から扇子が滑り落ちる。

 「……ぐっ……!」

 血の匂い。語りが止まった。饅頭様の口が、文翁の身体の中に吸い込まれるように伸びる。

 そのとき——

 

* * *

 

 哲也は叫びながら離れの戸を開けた。

 目の前に広がるのは、饅頭の海。祖父はその中央に膝をつき、身体から白い煙のようなものを吸い取られていた。

 「じいちゃんッ!!」

 文翁は、微かに笑った。

 「来るな……これは、わしの……仕事だ」

 体が、崩れていく。落語を語るその声も、もう出せない。

 それでも、祖父は口だけを動かしていた。

 語ろうとしていたのだ。最後の、命を込めた語りを——

 そして、完全な封印はなされぬまま、祖父は饅頭様に“喰われた”。

 あとには、ひとつの羽織と、扇子だけが残っていた。

 

* * *

 

 涙も出なかった。恐怖と、怒りと、悔しさが入り混じり、哲也の喉を塞いだ。

 饅頭様の声が、再び脳裏にささやく。

 ——おまえも、食え。語るな。ただ、食え。

 だが、哲也は耳を塞がなかった。

 「俺が、封じる……俺が、語る……!」

 

* * *

 

 その夜、哲也は再び夢を見る。

 夢の中で、祖父が座布団に座っていた。

 「おまえ、怖いか?」

 祖父の問いに、哲也は震えながらうなずいた。

 「怖い。でも……語りたい。語って、封じたい」

 祖父は、笑った。

 「それでいい。恐れがあるなら、それも語れ。“饅頭こわい”は、ただの笑い話じゃない。笑わせることの奥には、“喰われないための知恵”がある。語り手は、それを伝える者なんだ」

 夢の中の祖父の声は、どこか懐かしく、ただ恐ろしく遠くから聞こえるような気がした。


* * *


 「先輩、おじい様のこと聞きました・・・・」

 「ああ、でも悲しんでばかりもいられない。今度は、俺が・・・やらないと。でもどうすれば。」

 しばらくの沈黙の後。

 「先輩。饅頭様の本当の封印は、今の場所ではできません。始まりの地へ行かなければ」

 「始まり……の地?」

 「饅頭様が最初に祀られた村。いまは大水で消えた廃村の奥、忘れられた社があるんです。そこなら、“語り”が本当に届く。五感が失われても、“声”があれば、きっと……」

 「声……」

 哲也の口から、ふいに、笑いのような吐息が漏れた。

 ——まだ語れる。

 ——声は、ある。



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