第5話 感覚を喰うもの

 朝、目覚めると、指先の痺れは消えていた。けれど、それは一時の気休めに過ぎなかった。

 大学の構内は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていたはずだった。だが、哲也には妙な違和感がつきまとっていた。歩くたびに、足音が吸い込まれるように感じる。誰かの笑い声が、遠くから響くのではなく、耳の中で直接鳴っているような気がする。

 まるで——世界そのものが、どこか“ねじれて”いる。

 「あれ……」

 哲也は、購買の前で立ち尽くしていた。数人の学生が言い争っている。どうやら、パンを買ったのに味がしないと騒いでいるらしい。

 「昨日からだよ! 何食っても、口の中が甘くて変なんだよ!」

 「俺も! 塩辛いの食べても甘ったるい。まるで、……まんじゅう、みたいな」

 その言葉に、哲也は思わず振り返った。

 それだけではなかった。

 午後になると、友人の西田が教室で貧血のように倒れた。目を覚ました西田は、何かに怯えるように呟いた。

 「耳が……消えたんだよ。声は聞こえるのに、耳がないんだ……。触っても、……何も、ない……」

 医務室に運ばれた西田の耳は、たしかに“あった”。けれど彼は、何度も、自分の頭を両手で抱えて泣き出した。

 「聞こえるのに……怖い……! 全部、饅頭の笑い声みたいなんだ!」

 

* * *

 

 「町に……拡がってるのか」

 哲也は、沙耶の家を訪れていた。

 旧家然とした日本家屋。その仄暗い縁側に座った沙耶は、無言で首を縦に振った。

 「饅頭様の呪いは、感覚を喰います。まず味覚、つぎに聴覚、触覚、視覚……。人としての“五感”がひとつひとつ、あまいものに変えられていく」

 「“あまいもの”?」

 「そうです。最終的には、自分の存在すら“まんじゅう”として認識される。そうなれば、もう自分が何者だったかすら分からなくなる。呪いに完全に喰われる前触れです」

 哲也は、言葉を失った。

 「どうして、そんな……」

 沙耶は、ぼろぼろになった古文書を取り出して見せた。そこには、手書きの文字でこう記されていた。

 《饅頭様、かつて人を水の災いより護るため、まんず首をささげしものなり》

 「これ、私の家に伝わる古記録の断片です。昔、大水害の前触れとされた“水神”を鎮めるために、生首を供える風習があったんです。けれど、あまりに忌まれていたから、“饅頭”という名前で誤魔化したんです。首の形に似せた甘い菓子を、“供物”としてね」

 「じゃあ、饅頭様ってのは……?」

 「怒りを抱えた水神の亡霊。けれど、それが“語られる”ことで、笑いに昇華され、鎮まっていた。でも……誰かが封じ方を誤れば……」

 そのとき、家の奥から、鈴のような音が聞こえた。

 哲也の目が、わずかに霞む。

 「……見えない……沙耶、いま、そこにいるか?」

 「先輩……!」

 沙耶が手を取った。けれど、その手の感触が“饅頭の皮”のように思えてしまう。

 「違う……沙耶、か?」

 「大丈夫です、私です! 哲也先輩!」

 哲也の視界は、薄い和紙のように破れはじめていた。

 

* * *

 

 視界は少し元に戻っていた。どうやら呪いの症状には波があるらしい。

 「哲也、どうした。顔色が悪いな。」

 その夜、哲也の様子を見て心配した祖父が声をかけた。

 少し、言い淀んでから、呪いのことを話すと、祖父はゆっくりと目を閉じた。

 「……やはり、来たか」

 「知っていたの」

 祖父はうなずいた。

 「昔、一度だけ、“語ってしまった”ことがある。饅頭様のことをな。あれは、語ってはいけない怪異なんだ。本来は笑い話ではなく、供物の記憶なのだよ」

 哲也は息を呑んだ。祖父の目が、わずかに怯えているのを見たのは初めてだった。

 「これも宿命か。今度こそ私が封印しよう。おまえはまだ……向き合う準備ができておらん」

 「でも……!」

 「もし、わしが戻らなかったときは、おまえがやれ。その沙耶とともに。あの子の一族の力と、おまえの語りが合わされば、なんとかなるかも知れん——」

 そのとき、家の外から、ぐらりと空気が揺れるような音がした。

 聞こえるはずのない、水音が……哲也の鼓膜を震わせた。

 饅頭様は、確かに目覚め始めている。

 その“気配”は、もう、日常の皮膚を破って、現実に滲み出し始めていた。


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