チャプター8:守部(1)

 紫宿たちが13階に到着した音、それはとても驚くほど小さかったのだが、静寂の中では恐ろしいほど響きわたる。

 そして藍音を下ろした彼はおろか、あの泉までもが引き締まった表情で身構えたのと、全く同時だった。


「うわああああぁぁぁっ!」


 中年の男のものであろう叫び声が三人の耳に届く。


「ちっ!」

「ひ、悲鳴っ!?」


 弾かれたように走り出す紫宿、そして泉がすごい速さで先をゆく。

 悲鳴という聞きなれないものを耳にした藍音は凍りついたかのように一瞬身動きが取れなかったが、二人が飛び出したのを目にして正気に戻り、慌てて後を付いていく。


「こっちだ!」


 迷うことなく駆ける紫宿と泉、とあるオフィスの前で立ち止まる。


「中から鍵が掛かってる! 泉!」

「おっけいぃ!」


 紫宿が呼びかけるより早く、いつもののんびりした様子はみじんもなく素早く泉は扉をすり抜けた。

 するとすぐにカチャリと鍵の開く音がした、きっと泉が内側から開けたのだろう。


 そして勢いよく扉を開ける紫宿。中に飛び込み、大声を発した。


「やめろ!」

「!?」


 オフィスの中には、腰を抜かしながらも必死で逃げようと床を這う男。

 そして―――。


「女の……人?」


 息を切らせ、やっとの思いで追いついた藍音は目を丸くした。

 彼女の眼前には、逃げようとする男の前で彼を守るように立ちはだかる紫宿と、どこにでもいるような女性が対峙している光景があった。

 そう、本当にごく普通の女性――ただ一つ、体が透けているということを除けば。


「あ、あの人、ひょっとして?」

「そうよ~、私と同じ幽霊……う~ん、”ちょっと違う”かな」

「え?」


 幽霊は幽霊ではないのか、と思った藍音だが、女性の顔を見て気付く。

 その表情は泉のものとは違い、怒りに満ちて酷く歪んでいた。

 それを見ただけで藍音にも、彼女がそこにいる男に余程の恨みがあるのだろう事が容易く予想出来てしまう。


「きゃあっ!?」


 突然、稲妻のような閃光が辺りに飛び散り、藍音が悲鳴を上げる。

 それは男に向かって発せられたようだったが、紫宿が片手で簡単に弾き飛ばした。

 そして泉に向かって振り向かずに言う。


「泉、藍音とそこのおっさんを頼む」

「了解~」


 そう言うと、泉は何やら呪文のようなものを唱え、それと同時に不思議な光が彼女と藍音、そして恐怖でもう腰が抜けて動けなくなっていた男を包んだ。


「なんですか、この光? 綺麗……」

「き、綺麗って。普通の人なら死にかねないこの状況でその余裕、大物だねぇ藍音ちゃん。これは一言で言えばバリアーよ、相手がとんでもなく強い奴だったら意味無いけど、このくらいなら私の能力でもなんとか防いで弾ききれるの~。紫宿なら素手で余裕ぅ」


 緊迫しているはずなのに、藍音は綺麗だなどと言い、泉の声は相変わらず間延びしたそれである。緊張感はどこへやら、だ。

 一方、女性は次から次へと稲妻を発してはいるものの、それらを全て紫宿は泉の言う通り素手で払いのけている。


「やめろって。こんなのいくらやっても無駄だよ」

 ≪邪魔をしないで≫


 女性の声はまるで地の底から湧き上がって来るかのように低く、そしてどこか悲しいものだった。


「あのおっさんを恨む気持ちは分かるが、だからって殺していいわけじゃない」

 ≪黙って≫

「黙らないよ。なんてことないすれ違いで、あなたがこんなに苦しむ必要はないんだから」


 紫宿の言葉に、藍音は首をかしげる。


「え……紫宿は何を言っているんですか?」

「紫宿はね、俗に言うツンデレなのよ」

「余計にわからんちゃんですけどっ!?」


 何故か腕を組んでうんうん頷きながらの泉の言葉に、藍音は首をかしげるどころではなく思わず突っ込んだ。


 ≪……すれ違い≫


 しかし驚いたことに、紫宿の言葉にどうしてか女性は稲妻を発するのを止める。

 それを確認した紫宿は、まだ立つことすら出来ず泉に守られているだけの男の方をゆっくりと向いて尋ねた。


「おっさん。ある程度は予測出来てるけど、事の詳細を話してくれないか?」

「な、なんのことだ!?」


 いきなり話を振られて戸惑う男。しかし、それの本当の驚きの意味は違うものだ。

 それを悟った紫宿、表情を厳しいものに変えて鋭く言った。


「ふざけるな。この人はあんたの奥さんだろう? そしてあんたは保険金目当てで彼女を殺害しようとした――違うか?」

「!?」


 男は酷く驚いた、それはつまり紫宿の言ったことは全く正しかったということだ。

 紫宿はさらに強い口調にして告げる。


「あんたは検出が難しいとされる、少量のヒ素を日々食事か何かで奥さんに摂取させる、ということをしていた。怪我して入院している連中はその片棒を担いだってトコだろ? 一人でいっぺんにヒ素を購入すると不審に思われやすいし足も付く。だから、あまり深い関係でもない考え方も似る同世代で仕事仲間程度の数人で代わる代わる少量のヒ素を入手し、それを順に用いた」


 やはりそれもズバリその通りだったのか、男は口をパクパクさせるだけで何も言葉に発する事が出来ないでいる。

 一方、目を見開いている藍音。紫宿はしたり顔だ。


「そ、そんなこと、どうして分かったの?」

「ふ……さて、解決編の始まりと行こうか」

「あっはは、また形から入った~! そういうの、今はいらないからねぇ?」

「……悪かったな、やってみたかったんだよ」


 三文小説にありがちなのがいいんじゃないかと、ぶつぶつ呟く紫宿。

 犯行にヒ素を用いている時点でもう十分だと思われるが、彼にとってはそうでないらしい。

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