第20話


 花南の母親の招きで家の中に入ると、やはり家中に黒い靄が蔓延していた。

(落神、ほど強くない。月夜の言った通り、霊喰いの類か……?)

 先導する花南の母親の魂を視ると、ひどく擦り切れ、半ば透けかけていた。

 まるで、何かに喰われ続けているかのように。

 光留はそっと後ろ手に印を結び、警戒を強める。

 だが、次の瞬間――。

 ぎょろりと、母親が振り向いた。

 ビクリと、光留の肩が跳ねる。

「あなた、随分、霊力が高いのねえ……」

「え、ええ……。母方の実家が神社なので」

 花南の両親は、霊力がない。にもかかわらず光留を見て、霊力が高いと言った。

 なんとか平静を装い、光留は答える。

(……まずい。思った以上に侵蝕が進んでる)

 本来なら霊力のないはずの彼女が、光留の力に気付いた。

 もはや、母親自身の意識は、ほとんど残っていないのかもしれない。

 月夜には「命を削る術は、もう使うな」と言われている。

 けれど――もしもの時は。花南のためなら、迷わない。

「へえ、そうなの……。さぁ、こちらに座って」

 母親は、ぎこちない動きでリビングを指し示す。

 関節の動きが異様だ。まるで、別のものが人間の真似をしているかのようだった。

 光留と花南は、促されるままにソファへ座る。

「主人も、すぐ帰ると思うわ……。少し待って、てね」

 そう言い残し、母親はキッチンへと去っていった。

 キィィ、と油切れの音を立てて、ドアが軋む。

 静寂が落ちる中、光留は小声で花南に囁く。

「ごめん、花南。できるだけ出されたものは食べないで」

 こんな靄の充満する空間だ。

 空気だけでなく、食べ物にすら毒が回っているかもしれない。

 花南も事態を察し、小さく頷く。

 壁に、天井に、家具に……靄はじわじわと絡みつき、家そのものを蝕んでいる。

 母親がいない間に光留は周囲に視線を巡らせる。

 この靄の発生源を探すために。

(魂や血筋を辿ったのだとしても、これだけ広がるならどこかに依り代があるはず)

 これだけの霊障が、ただ自然に広がるはずがない。

 何かが、ここに"核"を成している。

 それさえ見つけ、封じることができれば――。

 しかし、胸の奥で、淡い焦燥がじわりと広がっていく。

 この家は、思っていたよりずっと、深く、長く、病んでいる。

 時間がないかもしれない――。

 決断を急かすような緊迫感の中、玄関の方からドアが開く音が聞こえた。

「あら、おかえりなさい、あなた」

「……ただいま……おや、花南は……もう帰ってきていたのか……?」

「ええ、ついさっき。お友達も連れてきたのよ」

 キシ……キシ……と床板が不自然に鳴る。

 ゾワリ、と光留の背筋が震える。花南も感じ取ったのか、無意識に光留の服の裾を掴む。

 リビングの扉が開く。

「……おかえり、花南」

 そこに立っていたのは――中年の男の"形"をした、何か。

 肌は土気色にくすみ、ぎしぎしと骨ばった手足が異様に長い。

 顔は干からび、ぎょろりと飛び出た眼だけが不自然に光っていた。

 花南が、息を詰めた。

「っ、た、だいま……」

 ようやく絞り出した声に、父親――らしき存在のぎょろりとした眼が、光留を捕える。

 悪寒が、骨の髄まで這い上がる。

(っ、酷い! こんなに侵食されているなんて……)

 母親以上だ。これではもう、人とは呼べない。

 花南が口元に手を当て、吐き気を堪えるのが見えた。

「っ、花南!?」

 とっさに光留が支える。

(まずい、血や魂を通してなら、花南にも影響が出て当たり前なのに!)

 油断していた。自分なら完璧に花南を守れると過信していた。

「っ、すみません! 花南さん、具合が悪いみたいなので……いったん、外に……!」

 両親は同時に首を傾げた。

 ぎし、と音がするほど不自然に。

「何を、言っているのぉ? ここは、花南の家……なのよ」

「そうだぞぉ……休むなら、花南の部屋で休めばいいぃぃ……」

 言葉は正しい。けれど、響きは異様だった。

 まるで、心がない人形が口を動かしているように。

 光留は迷わず花南を抱き上げ、リビングを後にする。

「っ、ごめん花南。もう少しだけ我慢して……」

 家を出た瞬間、空気が一変する。冷たく澄んだ風が光留と花南の肺を満たした。

「げほっ、げほっ……み、つるく……」

「ごめん花南。まさかあんなに酷いとは思わなくて……」

 後ろを振り返ると、玄関まで二人が追いかけてきていた。

 だが、結界に阻まれ、それ以上はこちらへ来られない。

「も、大丈夫……だから……」

 おろして欲しいと訴えるが、光留は離したくない。

「俺のために、もう少しだけ我慢してくれる?」

 花南を抱く光留の腕が、微かに震えていた。

 また、花南を失うかもしれない恐怖。

 もう二度と、あんな想いはしたくない。

「……うん」

 花南は光留に寄り添うように身体を預けた。

「かあぁぁなあぁぁんんんーー!」

「どおぉぉぉしてええぇぇ、逃げるうぅぅぅのぉぉぉ!?」

 悍ましい両親だったものが花南の名前を叫ぶ。

 けれど結界に弾かれて玄関から出ることは出来ないようだ。

 光留の結界は強力だ。

 歴代でも霊力はトップクラスだった“月夜”の生まれ変わりであり、現代で数えるほどしかいない巫女姫の称号を持つ、蝶子の守り人の力は同業者の中でも最上位クラス。

 いや、現代では最強とすら言われている。

 花南の両親が落神に喰われてしまったのだとしても、光留の結界を破るには相当な時間を要する。

(少なくとも2,3日の時間稼ぎは出来る)

 両親の変わり果てた姿から目を背ける花南の目を、光留はそっと手で覆った。

「花南は、これ以上見ちゃダメ。ごめん、辛い思いさせて……」

 優しい光留の声に、花南は涙が溢れてくる。

 光留は、花南と出会ったときから優しかった。

 初めて落神に襲われて、助けてくれた時も花南に怖いものを見せないように守ってくれた。

「ううん、光留君が謝ることじゃない。わたしの方こそ、なんの役にも立たなくてごめんなさい……」

 玄関で叫び続ける両親を思うと胸が痛む。

 だけど、たとえこれから依り代の核を浄化できたとしても、彼らが元に戻ることは、もうないだろう。

 花南もわかっている。

 落神に襲われた時の、あのどうしようもない恐怖を、まだ身体に覚えているから。

「ひとまずここを離れて、蝶子に連絡する。俺は攻撃は出来るけど、浄化は出来ないから……」

「うん。ごめんね、光留君に嫌な役やらせて……」

「気にしないで……って言っても花南は気にするよな。でも、そうだな……俺は――」

 光留は、微笑んだ。

「……花南が無事でいてくれたら、それだけでいいんだ」

 過ぎる想いが、胸を締めつける。

 光留の前世である"月夜"は、かつて自らの実妹に恋をした。

 無邪気で無自覚な、けれど許されない恋。

 その幼い絶望の果てに、月夜は自分の両親を、知らず知らず手にかけた。

 光留は、その"月夜"の生まれ変わりだ。

 だから――。

 魂の奥底に、"最愛の者だけを守ればいい"という本能が、刻まれている。

 たとえ、花南の両親が変わり果て、この手で殺めることになったとしても――。

 彼にとって、大切なのはただ一人。

 花南だけだった。

 結界の中の異様な光景は、霊力を持たない者には見えない。

 だから外から見れば、この家も、何もかもが平穏そのものに映るだろう。

 光留は、花南を抱きしめたまま、静かにその家から離れていった。

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