第4話 囁きと監視

大学のキャンパスはいつも通り騒がしく、だがどこか沈んだ雰囲気を漂わせていた。男たちはうつむき加減で、なるべく目立たないように足早に移動し、女たちはその流れを当然のように受け入れていた。

 石野悟は講義が終わると、資料をまとめ、誰にも話しかけられないように急いで席を立った。だが教室の出口で、彼の腕が誰かにそっと掴まれた。


「悟くん、帰るの?」


 声の主は、夏帆だった。深く切れ長の瞳、艶やかな黒髪、そして自然体でありながらどこか誘惑的な雰囲気をまとった彼女は、女子学生の中でも目立つ存在だった。


「……うん、特に用もないし」


「ふーん……じゃあ、ちょっと付き合ってよ。図書館、行かない?」


 断る理由が見つからず、悟は頷いた。

 二人で歩くその道中、夏帆は悟の歩幅に自然と合わせてきた。時折腕が触れるほどの距離で、まるで長年の恋人のように寄り添ってくる。


「最近ね、男子って本当に元気ないよね。怯えてるというか、縮こまってるというか」


 その言葉に、悟は返事をしなかった。


「でも、悟くんは違う。静かだけど、ちゃんと自分を持ってる感じがする。……そこが、好き」


 図書館の入り口に差しかかった時、夏帆は突然立ち止まり、悟の耳元で囁いた。


「今日は、私のこと、見てくれる?」


 その低く甘い声に、悟の心臓が跳ねた。

 閲覧室の一番奥。薄暗いカーテンの奥にある個別ブースに案内され、二人は腰を下ろした。そこは静かで、外からの視線は届かない。

 夏帆は鞄から文庫本を取り出すと、それをぱらぱらとめくりながら、ふと悟に視線を送った。


「ねぇ……悟くんって、女の人に迫られるの、嫌じゃないでしょ?」


 ドキリとした。見透かされたような気がして、悟はわずかに視線を逸らした。


「……どうして、そう思うの?」


「顔に出てる。無理に拒絶してないし、むしろ、ちょっとだけ……期待してる顔」


 そう言って、夏帆は悟の膝にそっと手を乗せた。

 図書館の静寂の中、その手の温もりが異様に際立っていた。


「ねぇ、触ってもいい?」


 その言葉に、悟は何も言えなかった。

 夏帆の手は徐々に太ももを撫で上げ、シャツの裾に指をかけた。その瞬間、悟の背筋が震える。


「こんなに素直だなんて、やっぱり悟くん……素敵」


 だが、その時だった。

 背後から視線を感じて、悟が反射的に振り向くと、カーテンのすき間に誰かの影がよぎった。


「……誰か、見てた?」


 夏帆は首をかしげたが、すぐににっこりと微笑んだ。


「いいの。そういうのも、ちょっとスリルあるし」


 だが悟は立ち上がった。心臓の鼓動が早まり、冷たい汗が額を伝った。


「……ごめん、俺、やっぱり帰る」


 夏帆は一瞬だけ不満そうにしたが、すぐに微笑みに戻った。


「逃げてもいいけど……どこに行っても、女の子たちは悟くんを見てるよ?」


 その言葉が、妙に現実味を帯びて響いた。

 家に戻ると、沙耶が玄関まで駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん、おかえり! 今日は遅かったね」


 彼女は悟の手を引き、リビングに連れて行った。そこで待っていたのは、姉・舞香。


「悟、おかえり。……少し顔、赤くない?」


 その指摘に、沙耶がすぐさま口を挟む。


「ねぇ、お兄ちゃん。今日はこっちの部屋で一緒に寝てくれない? 怖い夢見そうで……」


 悟は言葉を失った。沙耶の腕の力が強まる。


「……私も、話したいことあるのよ」


 舞香の声は柔らかかったが、有無を言わせぬ重さを含んでいた。

 ――これはただの家族の会話じゃない。

 彼女たちは確実に、悟を囲い込み始めている。

 逃げ場は、もう本当にどこにもないのかもしれない。

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