第3話 誘惑

夕食後、家の中は静けさに包まれていた。台所では舞香が片付けをしており、沙耶はリビングで膝を抱えてテレビを眺めている。その姿は一見無邪気だったが、悟が近づくと彼女はぱっと立ち上がって手を握った。


「お兄ちゃん、部屋で話そう?」


 その手の温度は微かに高く、鼓動が指先から伝わってくるようだった。悟は頷き、沙耶の後ろについて自分の部屋へと向かった。

 ドアが閉まり、ロックがかかる音が妙に大きく響いた。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 沙耶はベッドに腰掛けて、悟を見上げた。


「最近、誰かと仲良くしてる?」


 悟はその問いに戸惑った。明確に「付き合っている」わけでも、「誰かに恋している」わけでもない。だが夏帆の顔が頭をよぎった。


「……してないよ」


「そっか……なら、いいの」


 沙耶は微笑みながら、そっと悟の手を自分の膝に置いた。その動きはどこか自然で、だが明らかに意図が込められていた。

「今日ね、すごく嫌なことがあったの。学校で、男の子の友達が、クラスの女子たちに囲まれて……泣かされてた」

 その声には怒りと悲しみが入り混じっていた。悟は何も言えず、ただ彼女の手を握り返した。


「だから、お願い。今だけでいいから、私を甘えさせて」


 沙耶は悟の胸に顔を埋め、ぎゅっと抱きついてきた。華奢な体が震えている。だがその震えは、単なる悲しみだけではなかった。

 少しずつ、彼女の手が悟の背中から腰、そして太ももへと滑っていく。


「……さや?」


「ダメ? お兄ちゃん、優しいから……ずっと、こうしてたいの」


 その声は甘く、耳元で囁く吐息が肌にまとわりつくようだった。

 悟は心を落ち着けようとした。妹だ。沙耶は家族で、守るべき存在。

 だが、彼女の細い指先がシャツの裾をそっとめくる感触に、理性が少しずつ削られていく。

 ──その時、ノックの音が響いた。


「悟、ちょっといい?」


 舞香だった。

 沙耶は一瞬だけ睨むようにドアを見たが、何も言わずに身を引いた。悟がドアを開けると、舞香が微笑んで立っていた。


「ちょっと手伝ってほしくて。食器、上の棚にしまいたいの」


 言い訳にしか聞こえなかったが、悟は無言でうなずいた。

 台所に行くと、舞香は悟の手を取って棚に誘導しながら、そっと身体を寄せた。


「沙耶と何話してたの?」


「学校のこと。たいしたことじゃ……」


「ふぅん……でも、沙耶ってね、ああ見えて独占欲強いの。悟が誰かに取られそうになると、子どもみたいに泣いちゃうのよ」


 その声は優しげでありながら、どこか探るような響きを持っていた。舞香の胸が悟の背中に押し付けられ、彼女の指先がさりげなく手の甲をなぞる。


「だからね、お姉ちゃんも……今のうちに少しぐらい、甘えたいなって思った」


 振り返ると、舞香の唇がほんの数センチの距離にあった。


「……だめ?」


 悟は何も言えなかった。心臓の鼓動が早くなり、息が浅くなる。

 ――これは、もう逃げ場がない。

 だが、悟は思う。 (本当に、逃げたいのか?)

 その問いの答えが見つからないまま、姉の温もりに包まれていく自分が、確かにそこにいた。

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