第10話 父親と母親のこと
いや、本当は覚えているはずだ。
離婚したのは小学校の六年生のときなのだから。
だけど、六年生のとき離婚した両親の家庭内でのケンカがあまりにもひどくて、そしてそれは長い期間に渡っていて、深優は記憶を閉ざしたのだ。自ら。
小学校低学年のときは、まだ、夫婦仲はそこまで悪くはなかった。
父の女癖の悪さから、ケンカすることはあった。だけど、毎日というほどではなかった。
両親のケンカがひどくなったのは、四年生くらいのことだ。
父親と母親は毎日のように怒鳴り合い、そして家の中は荒れた。ケンカのたびに物が壊れた。
「あの女は誰よ!」
「お前には関係ない!」
「あるわよ! わたしは妻なのよっ」
「はん、何が妻だ! 掃除も洗濯も料理もろくに出来ないのに、偉そうな顔をするんじゃないっ」
実際母親は、片づけが苦手で、家の中は常に散らかっていた。洗濯も定期的にすることが出来なくて、靴下はしょっちゅう片方なくなった。料理も苦手で、生煮えか焼き過ぎか、薄くて味がないか濃すぎて食べられないほどか、どちらかで、おいしいと思うような味ではなかった。惣菜で済ますことも多かった。
「何よ! あんただって、やればいいでしょう」
「俺は稼いでいるんだよ!」
父親は、家のことは何もしない人だった。稼いでいる、とは言うものの、自分の遊興費に多くのお金を使い女に使い、決して裕福な生活ではなかった。むしろお金がない状態がずっと続いていた。
深優は五年生くらいのときから、勉強を難しいと感じていたので、クラスメイトみたいに塾に行きたかった。五年生になると、多くの子が塾に行くようになっていたのだ。塾に行っていなくても勉強が出来る子は、親に教えてもらっているらしかった。……そんな家があるのかと、深優は心底驚いた。
(お父さんもお母さんも、勉強を教えてくれはしない。だったら、塾に行きたい)
内心、成績が芳しくないのを見て、「塾に行け」と言われるのを心待ちにしていた。
だけど、深優の両親が娘の成績を気にすることは、一度も無かった。
深優は落胆した。
――でも。
深優が本当に一番習いたかったのは、ピアノだ。
音楽室にあるピアノを触ると、なんとも言えず美しい音がして、ピアノを弾けたらいいのに、とこっそりと思っていた。だけど、家にピアノはおろかキーボードすらなく、もちろん買ってもらえないことは肌で感じとっていたので、「ピアノを習いたい」とは決して口にしなかった。「塾に行きたい」以上に言えない台詞だった。
(梨菜ちゃんも塾に行き始めたから、遊べる日が少なくなっちゃった)
家の中は荒れ続けた。
両親がケンカをすることで散らかったし、母親は前にもまして家事をしなくなっていったのだ。そして、あるとき深優にこう言った。
「深優! あんた、もう大きいんだから家のことやりな!」
深優は家事をすることになった。離婚する少し前のことだったと思うが、その辺りの深優の記憶は曖昧で、はっきりしなかった。
(本当は、ごはん作ったりするよりもピアノを習えたら嬉しかったなあ。でも、せめて、梨菜ちゃんと塾に行きたかったな。家のことをしていると……塾行く時間、ないや)
このようにして深優は、みんなが遊んだり習い事をしたり、或いは勉強をしている時間に、家事をするようになった。
深優が家事をすると、少なくとも母親の機嫌はよくなった。感謝の言葉はかけられなかったけれど、機嫌がよくなるならば深優は嬉しかった。
(怒鳴り声、怖いから)
深優は怒鳴り声を聞くと、心臓が縮み上がる思いをした。
だからなるべく、二人が怒鳴りませんように、と祈っていた。毎日。
家事をする必要のなくなった母親はパートの仕事を辞め、フルタイム勤務にし、毎日忙しく働くようになっていった。帰宅時間もどんどん遅くなった。
「あたしだって、稼いでいるわよ!」
「微々たるもんだろ!」
それはそれでケンカの火種にはなったが、母親が働き出したことで、家の財政事情は改善された。学級費をもらうとき怒られなくなったので、深優はほっとしていた。
でも結局、母親がフルタイムで働き始めたことは、離婚の直接的な引き金となった。
「そんなに、その女がいいなら、その女と暮らせ!」
「お前、一人では生活出来んくせに!」
「出来るわよ! 働いているのよ!」
激しいケンカの末、両親は離婚した。
「深優。あんたはわたしと来るのよ。そうして、わたしを手伝いなさい。それくらい、してもいいでしょう? ここまで育てたのはわたしなのよ」
「はい」
「それからね、浮気なんかするのは父親じゃないわ。だから忘れなさい。あんたに父親はいないのよ」
「……はい」
父親の痕跡は一切消去された。
深優は、母親と新しい部屋に引っ越した。
(梨菜ちゃんち、遠くなっちゃったな。学区は同じだけど)
ただ、離婚後、少なくとも二人が怒鳴り合う声がしない分、ほっとした。
母親の機嫌さえよければ、怒鳴られたりもしない。だから深優はいつも母親の機嫌を窺っていた。不機嫌になると、人が変わったかのように汚い言葉で怒鳴るので、とても怖かったのだ。
父親のことは、母親のために忘れることにした。不思議なことに、忘れようと思うと、本当に忘れてしまった。
(お父さんの顔、もう思い出せない)
両親が離婚して、深優はますます自分を閉ざすようになった。同時に声を発することが苦手になっていった。
(大きな声は嫌い。大きな声を出すのも嫌い)
耳の奥に残って消えない罵声は、深優を苦しめた。
*
布団に入っても、先ほどの
(お母さんのこと、久しぶりに怒らせちゃった。……怖かった。こんなとき、すぐに
(でも、お母さんがいるときには、心音ちゃんとお話は出来ない。そんなことしたら、心音ちゃんのことがお母さんにバレちゃう。そうしたら、お母さんはきっとものすごく怒る。……もしかして、スマホを壊されるかもしれない。そんなの、いや)
深優は布団を頭からかぶった。そして、スマホを握りしめた。
(明日になったら、お母さんの機嫌、直っていますように)
(部活のことも、どうしよう? ……心音ちゃんに相談しよう。そうしよう。明日、心音ちゃんに相談して決めよう)
そう決めると、ようやく眠りにつくことが出来た。
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