第52話 犬と癒し

 福永家の庭は、よく手入れされた芝生が広がる、穏やかな午後の日差しに包まれていた。柵の一角には、大型犬用の立派な犬小屋と、その前に広げられた柔らかな毛布。そこには、ふわふわの毛玉のような子犬たちが、母犬の周りにころころと転がっていた。


「6匹いるんだ」


 佐倉が穏やかな声でそう言うと、天音は軽くうなずいた。少しだけ屈んで、手を伸ばす。小さなジャーマンシェパードの一頭が、好奇心旺盛に彼女の指先をくんくんと嗅ぎ、そのまま口元で甘噛みしてきた。


「わっ......くすぐったい」


 天音が思わず笑う。自然とその顔に、今までになかったやわらかな色が浮かんでいた。

 

「母犬のルナはね、もともと福永さんの息子さんが保護してた子でね」


 佐倉が、傍らで静かに話す。


「いろんな犬と暮らしてきたけど、このルナが一番穏やかだって。優しい目をしてるだろ?」


 天音は、母犬に目を向けた。子犬たちの近くで横になっているルナが、こちらに視線を向け、穏やかなまなざしで見守っている。


「......うん。すごく、お母さんって感じ」


「そうだね。子犬たちのために、どんなに疲れてても、ちゃんと起き上がって舐めてあげたりしてる。ああいうの見ると、強いなって思うよ」


 佐倉の言葉に、天音はまた一つうなずいた。

 

「この子、お腹見せてる」


 天音の膝元に寄ってきた子犬が、仰向けになって小さな足をぱたぱたと動かしている。ふわふわの腹毛が太陽の光を受けてふんわりと輝いて見えた。


「気を許してる証拠だな」


 佐倉が笑いながらそう言った。

 

 その光景を、少し離れた縁台に座っていた真帆と千佳が、静かに見守っていた。真帆は柔らかく手を組み、千佳の肩に優しく触れた。


「......来てよかったですね」


「はい。......ありがとうございます」


 千佳の声には、目の前の娘に対する、深い安心がにじんでいた。

 

 子犬たちは飽きることなく天音の手元にまとわりつき、互いにじゃれ合いながら小さな尻尾を振っている。天音の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。

 

「......ほんとに、かわいいね」


 その呟きは、誰に向けたものでもなく、まるで自分の奥にある何かを確かめるようだった。


 庭には春の風が吹き抜け、緑の葉をゆらしていく。


 そのひとときが、天音にとって確かに癒しとなっているのを、佐倉は黙って見守っていた。


 それかと言うもの、天音は校門を出ては、静かな住宅街を歩いていく。下校の時間帯。時には一人で時にはぽつぽつと友達同士で、落ち着いた足取りで歩いていた。


 住宅街の一角で、リードを手にした福永陽一区議の姿が見えた。近所の愛犬家とともに“おかえり見守り隊”を務めている彼は、子どもたちの通学路の安全を守る活動を長年続けている。


「天音ちゃん、今日もおつかれさま」


 にこやかな笑顔で声をかけてくる福永。彼の足元では、賢そうなジャーマンシェパードがゆっくりと尾を振っていた。母犬のルカだ。見守り活動のあいだ、通りを歩く子どもたちにさりげなく寄り添っていた。


「こんにちは、福永さん」


 天音は少しはにかみながら挨拶を返す。福永がリードを軽く引くと、ルカが落ち着いた様子で歩き出し、天音もそのあとに続いた。


 福永家の門をくぐると、ルカの姿を見たとたん、小さな子犬たちがわらわらと飛び出してくる。


 天音が思わず笑顔を浮かべてしゃがみ込むと、子犬たちは一斉に彼女の膝に飛びついてきた。裾をくんくん嗅いだり、じゃれついたりと、思い思いに甘えてくる。


「ルカは子育てが上手でね。見ていて感心するよ」


 ルカの頭を撫でながら福永が穏やかに言った。


 天音は膝に乗ってきた一頭を、そっと抱き上げる。小さくて温かく、毛並みはふわふわだ。鼓動が小さく彼女の腕に伝わってくる。


「......この子たち、元気いっぱいですね」


「うん、すくすく育ってるよ。見守りの帰りにこうやって寄ってくれるの、嬉しいんだ」


 天音は微笑んで、抱いた子犬の頭をやさしく撫でた。


  ジャーマンシェパードといえば、警察犬の代表格でもある。賢くて忠実で、何より人の心に寄り添う性質を持つ犬種だ。天音は、そんな彼らに毎日少しずつ癒されていた。特に母犬のルカは、静かに彼女のそばに寄り添うように座り、まるで子どもたちを守る責任を理解しているかのようだった。


「佐倉くんは仕事があるからこの時間には来れないけど」


 福永がそう言うと、天音は少し寂しそうに目を伏せたが、それでもすぐに笑みを浮かべた。


「はい......でも、来られなくても大丈夫。ルカがいてくれますから」


 日が傾き、芝生の影が長く伸びていく。


 子犬たちは無邪気に転げ回り、天音の膝の上では一頭が満足そうに丸くなって眠っていた。

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