第50話 父が立ち去った後の
天音を伴って住宅街の一角にあるアパートメントの前にたどり着いたとき、すでに空は暮れかけていた。
「ここです」
小さく言った天音の声にうなずき、佐倉は呼び鈴を押す。
数秒後、ドアが静かに開いた。現れたのは、穏やかながらも、どこか警戒を滲ませた瞳の女性だった。黒髪をすっきりとまとめ、薄化粧にエプロン姿。天音の面影を残す顔立ちに、佐倉はすぐに彼女が母親だと察した。
「......天音?」
千佳が目を見開いた。天音は無言のまま、母の胸に顔をうずめた。
「ごめんなさい、ちょっと外で......」
佐倉が口を挟もうとすると、千佳が彼に視線を向けた。
「あなたが......?」
「ああ、佐倉です。通学路の見守りをしていたところ、偶然......」
名乗り終わらぬうちに、千佳はそっと頭を下げた。
「お世話になりました。上がっていただけますか。......少し、お話ししたいことがあります」
通されたリビングはこぢんまりとしていたが、清潔で温かな空気が漂っていた。テーブルの上には天音の教科書と、途中まで開かれたノート。壁には家族写真は見当たらず、代わりに天音が描いたらしいカラフルな動物の絵が飾られていた。
天音が自室に戻ってから、千佳が深く一礼した。
「このたびは、本当にありがとうございました。......お名前だけは、天音から聞いたことがあったので」
「そうですか。......突然のことで驚かれたと思いますが、お嬢さんは冷静でした。無理に関わろうとしなかったのは、むしろ彼女の判断だったかと」
「ええ。あの子、無理をしてしまうんです。......“平気なふり”が得意な子なんです」
千佳の言葉に、佐倉は頷いた。
少し沈黙が流れたあと、彼女が小さく息をつく。
「香山とは......しばらく連絡も取っていなかったんです。いろんなことがあって、離婚を決めてから、ようやく天音とふたりで落ち着いたと思っていたのですが」
彼女の目元に、ほんのわずかに影が射した。
「すみません。込み入った事情を長々と話すべきではありませんね」
「......いえ。少しだけでも聞いておければ、こちらも状況に備えやすくなります。お嬢さんのことを見守るつもりでいたので」
千佳は、黙って頷いた。
「ありがとうございます。天音も、あなたのことを信頼しているようです。......今日のことも、あの子なりに、覚悟していたのかもしれません」
「ご心配が続いていると思いますが、区議の福永さんも、天音さんのことをよく気にかけておられます。これからも、できる限りのことはします」
その言葉に、千佳はふっと安堵したような微笑みを浮かべた。
「......心強いです。これから、少しずつでも、天音が安心して学校に通えるように。親として、それだけが今の願いです」
リビングの窓から差し込む夕暮れの光が、佐倉の背中に長い影を落とした。
言葉少なに、その場を辞した佐倉の胸には、静かだが確かな責任感が残っていた。
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