第4話 初出勤 グリーム・コミュニケーションズ
地下鉄の改札を抜け、駅の出口を上がった瞬間、朝の風がスーツの裾をそっと持ち上げた。晴れ渡る空に白い雲が流れ、街全体が柔らかな光に包まれている。
日向こはるは、手袋を外して小さく息をついた。冷たい空気が胸にしみる。その感触が、今日という日をより鮮明に感じさせていた。
高層ビルが並ぶこのエリアの一角に、彼女の就職先である広告代理店「グリーム・コミュニケーションズ」の本社ビルがある。目的地は九階。晴れた空と同じ高さのフロアで、今日から彼女は新しい日常を始める。
大きなガラス扉を抜けてエントランスへ。天井は高く、白とウッドを基調にした内装が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。エントランスホールの中央には観葉植物が配置され、ビル内の硬質な印象を和らげている。
受付で仮の社員証を受け取り、セキュリティゲートを通ると、彼女は自動ドアの先にあるエレベーターへと向かった。エレベーターの中、天井の小さなミラー越しに、自分の表情を確認する。緊張はある。でも、不思議と平静だった。
「九階......よろしくお願いします」
軽くつぶやいたその声に応えるように、ドアが静かに開いた。
九階のフロアは、まるで小さな街のようだった。中央には広々としたオープンスペースがあり、壁際を囲むように各部署のデスクが並ぶ。カーペットはグレーがかったブルーで、窓側から射し込む朝の光がふんわりと拡がっている。
ガラスのパーティションで仕切られた会議室がいくつか並び、それぞれに小さな観葉植物とカラフルなチェアが配置されていた。天井のダウンライトは自然光と混ざるように抑えた明るさで、全体的に柔らかな空気が流れていた。
「おはようございます、ひなたこはるさんですね?」
声をかけてきたのは、人事の白川氏だった。先日の最終面接でも同席していた落ち着いた印象の女性だ。
「おはようございます。本日からお世話になります」
「ようこそグリームへ。今日一日は社内案内と簡単なオリエンテーションになりますが、まずは所属フロアをご紹介しますね」
歩きながら、白川は軽やかに話し続けた。
「このフロアは主に広報部と企画部が入っていまして、奥が制作チーム。広報部の第三チームに、日向さんのデスクがあります」
広報部の第三チームは通称で、正式にはクリエイティブ一課と言うらしい。外向きと内向きの部署名があるのだそうだ。案内されたのは、オフィスの南東側。窓に面した明るいエリアだった。ちょうど朝の日差しが入る時間で、木目調のデスクに自然光が優しく差し込んでいる。
「ここがあなたの席です」
「......窓際なんですね。素敵です」
「眺めは良いですよ。午後になると西日も差し込んで少し暑いですが、今の季節は快適です」
デスクの隣には、すでに出社している社員が三人ほど。30代半ばと思しき男性が、ちらりとこちらを見て笑みを浮かべる。
「新しい方ですね? 広報第三チームの高梨です。お隣さん、よろしくお願いします」
「日向小春です。今日からお世話になります」
「小春さんって、春っぽくて良い名前だね。うちのチーム、女性少ないから助かるよ」
その言葉に、向かいの席の女性社員が「失礼なこと言わないの」と笑いながらツッコミを入れた。黒縁のメガネが印象的な彼女は、やわらかな声で自己紹介をしてくれた。
「私は広報の山口です。パワポ作るのが得意なだけの地味担当だけど、困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとうございます。心強いです」
そんなやりとりをしている間に、空気はすでに少しだけ温まっていた。オフィスのあちこちで、コーヒーを持った手やPCを立ち上げる音が響いている。
カジュアルすぎず、かといって堅苦しくもない。木材とガラスのバランスが効いた内装は、そこに集う人々の雰囲気ともよく調和していた。
「それでは、午前中はオリエンテーションに移りましょうか。会議室で会社概要や使用システムの説明を受けてもらいます」
人事の白川に促され、こはるは軽く頭を下げてデスクを離れた。背後で聞こえるキーボードの音が、まるで都市のささやきのように聞こえた。
会議室のドアが閉まったとき、こはるは一度だけ窓の外を見た。高層ビルの間を縫うように街の通りが続いていて、小さな車と人々が行き交っていた。
新しい視点、新しい肩書、新しい一日。
「日向小春」という名前を胸に、彼女は静かに椅子に座った。
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