第20話

 ランプの明かりが、やわらかく灯る。

 二人の足音だけが、静まり返った部屋に穏やかに響いていた。

 棚には使いかけの薬草が並び、ほのかに甘くやさしい香りが漂っている。


 ティナは長い一日の疲れを感じながらも、

 ふと窓の外を見上げ、静かな夜空を見つめた。

 星々がきらきらと輝き、まるで時が止まったかのような、

 平穏のひとときがそこにはあった。


「……ユリウス、今日のこと、忘れないよ」

 ティナはそっと顔を上げ、小さく囁く。

 その瞳には、小さな夢を映したような光が宿っていた。


 ユリウスは静かにその言葉を受け止め、

 少しだけ苦笑を浮かべながら「俺もだ」と応じる。

 けれどその間には、言葉にしきれぬ想いが静かに漂っていた。

 口にするには、まだ重たすぎるものたち──。


 ティナは無言で彼に寄り添い、そっとその肩に頭を預けた。

 ふたりだけの世界で、ゆるやかに時間が流れていく。


 やがてティナは目を閉じ、穏やかな眠りに落ちていった。

 その香りは、甘い蜜のようであり、薬草のようにやさしかった。


 ユリウスは、ただそのまま、じっとしていた。

 彼の胸の奥に、知らぬうちに芽生えた想いが、

 静かに根を張ってゆくのを感じながら。


「いつか、ふたりで……」

 ティナの言葉がふと心に蘇る。

 その夢のような響きが、彼の心を優しく揺らしていた。


 ユリウスは静かに息を吐き、目を閉じる。

 けれど現実は、そう甘くはない。


 彼の手に触れるのは、ティナのぬくもりだけではなかった。

 これから向き合う冷ややかな現実の気配も、確かにそこにあった。


 それでも──

 今はただ、この静かな時間を、抱きしめていたいと思った。


 何も言わず、ティナの髪にそっと手を添える。


 ---


 夜が白みはじめた頃、調合所の扉が、控えめに軋んだ。

 ユリウスが椅子から身を起こすと、そこには見慣れた影が立っていた。


「ロマンチックな余韻に、水を差したか?」


 現れたのはガイル。

 仮面も、着飾りもない、いつもの黒衣のまま。

 けれどその目は、夜の星のように冴えた光を宿していた。


 ユリウスは肩越しに一瞥し、ため息まじりに応じる。

「来ると思ってたよ」


「ま、こっちもいろいろ忙しくてね。あんたら、舞踏会ずいぶん楽しそうだったじゃないか」


 ガイルは部屋の中に入り、カウンターの端に腰を下ろした。


「で? 収穫は? “王族の庭”の踊り子は、何か持ち帰ったか?」


 ユリウスは眉をわずかにひそめたが、答えは返さなかった。

 代わりに視線をティナへと向ける。

 彼女はソファに身を預け、深紅のドレスのまま、穏やかな寝息を立てている。


「思い出をひとつ。忘れられない踊りをな」


 ガイルは目を細め、冗談めかしながらも、どこか探るような鋭さを含んでいた。


「そりゃ何よりだ。 ……だが、“忘れられない”ってのは、時に“忘れちゃ困る”って意味にもなる」


 ユリウスは応えず、静かに視線を落とす。

 ティナの肩にかけた薄布が、彼女の寝息に合わせて、静かに揺れていた。


「なあ、ユリウス」

 ガイルの声が、少しだけ低くなる。

「今夜、あの広間にいた男の一人──レイグルの目が、おまえに向いてた。気づいてたか?」


 ユリウスの瞳がわずかに揺れた。


「……気づいた。仮面越しでもな」


「だろうな。もう過去からは逃げられない」


「おまえが持たせた招待状には、裏があると思っていたが」

「裏がない情報なんて、退屈だろう?」

 そう言って、ガイルは懐から小さな布包みを取り出し、

 まるで月の光をそっと机に落とすように、二冊の本を置いた。


「これは……?」


「一冊は、薬に関する古い記録。グレースについて書かれてる。

 もう一冊は、レイグルに関する記録だ。……欲しかったんだろ?」


 ユリウスは眉をわずかに動かした。


「お前は……どこまで知っている?」


「さあな。ただの情報屋だ。王家は“忘れたふり”をしているが、

 記録はまだ、深く、根の奥で息づいている。

 火種をくすぶらせたのはおまえだ、ユリウス。今夜が、その始まりだ」


 ユリウスは本のページをめくり、ひとつ、深く息を吐いた。


「……望んでいたことだ。いずれ、辿るべき場所に行く」


「そのとき、お姫様はどうするんだろうな」

 ガイルはちらりと、眠るティナを見やる。


「夢を見るには、あの子の心は、あまりにやわらかい。

 現実が牙を剥いたとき──おまえは」


「──守るさ」


 ユリウスの言葉は短く、けれど揺るがなかった。

 その声には、確かな決意と、まだ名前のない想いが宿っていた。


 ガイルは目を伏せ、ふっと口の端を歪める。


「……最近のお前は、お節介だな。昔のあんたは、どこにいたんだよ」


「俺にだって、人生の娯楽は必要ってことさ」


 ガイルは軽く肩をすくめ、すっと立ち上がる。

 そして扉の方へ向かいながら、最後に言った。


「夜が明けるぞ。しばらくは静かだろうが……次に風が動くのは、そう遠くない」


「……わかってる」


 軋む音とともに扉が開き、

 夜明けの光がほんの少しだけ、調合所の床を照らした。

 その光の中、ガイルは振り返ることなく言い残す。


「じゃあな。“王子様”──踊り子の手は、離すなよ」


 そして彼は、夜の帳の向こうへと消えていった。


 やがて訪れる静かな朝。

 調合所には、ティナの穏やかな寝息と、冷めた紅茶の香りだけが、

 やさしく、ふたりの時間を包んでいた。

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