第2話 蛇能面


 それからリュネットを待っていたのは、典型的な嫌がらせであった。



「リュネット、掃除もまだなの?

 本当に使えないのね」

「リュネット、貴方みたいな年増があたしに仕えられるなんて奇跡なんだから」

「……ちょっと?

 椅子の位置が少しずれているわ?

 整頓すらできないの?」

「笑ってないで何とか言いなさいよ。

 ……あ♡

 そっかぁ、おばさんは耳も遠いのね?

 嫌だわ~ナルシア、そうはなりたくな~い」



 このような言葉は日常茶飯事。

 加え、食べ物を床に捨てられる・それを食べろと命令される・使用人は常に立てと言われ、気に食わないと物が飛ぶことも多々。



 ナルシアは元歌劇の歌姫だったようで、数多の男性から声掛けがあったとのこと。それらを袖に振り、ダルネスの愛人となった理由はもちろん、彼の爵位を狙ってのことだろう。


 その性格は醜悪で、とにかく、人を蔑み・見下し・精神的優位を取らねば気のすまぬタチ。


 相性は最悪だ。

 それに比例するように、屋敷の雰囲気も悪化の一途をたどっていた。



 そんなある日のこと。

 粛々と世話をこなすリュネットの背を見て、ソファー上で、ごろんと横になっていたナルシアは、つまらなそうに唇を尖らせると彼女に向かって声を投げた。



「ねえ。なんかつまんなーい。面白いことしなさいよ。おばさん」

「……」

「ちょっと聞いてるの? おばさん。聞こえてんのはわかってんだけど?」

「……」



 あからさまに不機嫌・挑発的な声で言うナルシアを意識の外に、リュネットは静かに本を片づけた。



 まったく、気分屋の女だ。

 先ほど黙れと言ったら矢先にこの態度。

 舌の根も乾かぬうちに自分の言葉を覆すとは、呆れるほど愉快な舌である。



 そんな彼女に費やす時間はない。

 そう、感情を凍土に沈めるリュネットの、視界が、突如。


 ぐらりと揺れた。


 同時に響いたガツンという音と、激しい痛みに目を閉じ、歪めるリュネット。瞬時に視界がぼやけ、足がよろめき踏みとどまった。



 何が起こったかわからない。

 右の額が痛い。

 ぐらつく視界が不快だ。

 ズキズキとした痛みに抗い原因を探せば、床に転がるは銀の水差しと、床に広がった水。



 ──投げたのですね、これを。



 一瞬で理解した。

 額に液体の伝う感覚を覚え、眉を顰めて触れてみれば、鮮やかな赤。それが血液だと認識すると同時に、ナルシアの冷たく不機嫌な声が飛んだ。



 

「ほら、『返・事』。しなさいよ。ナルシアを無視するなんてありえない。売られる女のくせに、何人間ぶってるの?」



 ──偉そうに。

 口には出さぬ怒りが、ぐらりと揺れる。

 しかしそれを顔には出さないリュネットに、ナルシアというと「尊大」なのだ。


 腕を組み足を組み、尊大に構えるナルシアは、慌てて逃げ出す使用人たちの背中を横目に、くすりと笑い立ち上がってみせた。



 かつん、かつん。


 優雅で思わせぶりなヒールの音。

 しゃなりしゃなりとドレスが揺れて、挑発するように靡いた。


 そんなナルシアを瞳だけで追いかけるリュネットに、一笑すると、彼女はテーブルの上に置かれたハンカチをつまみ上げ──放る。

 


 それはリュネットのものだった。

 母にもらった仕立ての良い絹のハンカチ。

 まるで汚らしいもののように放られたそれは、床に広がる溢れた液体に浮き、みるみるうち暗く染まる。




 反射的にリュネットの瞳が彼女を捕らえた。

 ナルシアの口元が悦に歪む。

 『拭けよ、ババア』。

 腕を組み見下ろすナルシアは、そのまま。醜く笑いながら言うのだ。



「アンタなんて価値無いんだから。

 ご主人様を楽しませなさいよ。

 楽・し・い・こ・と・の・ひ・と・つ・で・も、やって見せたらどうなのぉ?」



 ナルシアの愉悦と嘲笑を含んだ言い分は、リュネットを上から押さえつけるように響き、そして愉快さを増していく。



「そうねぇ。下着姿で走るとか?

 跪いて吠えるとか?

 使用人呼んでよ、男の小間使いに見てもらいましょ♡ そうしましょ♡」

「……」



「なぁに? あははは、冗談よー♡

 冗談に決まってるじゃない♡ 

 こんな冗談もわからないなんて、いやぁね。

 程度が知れるってものだわ♡」

「…………」



「何よその目。

 反抗的に睨まないでくれる?

 ナルの顔が汚れちゃうじゃない」




 言いながら、愛くるしい顔を醜悪に染めるナルシアに、リュネットは静かに目を伏せた。

 


 ──そう、それでいいのです。

 思う存分、わたくしを蔑み馬鹿にしてくださいませ。

 


「っていうかおもしろーい♡

 あんたもそんな顔できるんだ?

 へえ、蛇能面のままだと思ったのに♡」




 鏡をご覧になられたことはありまして?

 可愛いお顔が台無しですわよ、ナルシア様。




「今日は帰っていいわよ、リュネット。

 ふふ、今夜が楽しみね♡」



 そんなリュネットの内心など、知る由もなく。

 ナルシアは愉悦の笑みを浮かべ、腰かけ組んだ足をゆらゆらと、ご機嫌に踊らせたのであった。









 ──絡まり響く唾液の音。

 劣情を抑えた男女の吐息が部屋に満ちる。

 ダルネスの膝の上、ナルシアは猫のように胸元へ顔を摺り寄せ、瞳で求める。


 呼応するように抱きしめるダルネスの腕に、

「あ」

 甘い声が漏れ、ダルネスのソコを刺激した。



「……熱いの、ダルネスさまぁ」

 ねだるように欲しがる彼女の声は、蜜のように甘ったるく。艶めかしい舌先が求めるのは、ダルネスの唇。



「ああ、ナルシア。お前を想っている」

 吐息交じりの欲情に、ナルシアの唇は更に彼を求め──ているのを見届けながら、リュネットはひとつ、瞬きをしただけだった。



 欲望に呑まれる彼らは、まるで蠢く虫のように滑稽で。リュネットの胸の内、静かに紡がれ溢れ出るのは”軽蔑”だ。




 ──愚かなものですね。醜い振る舞いを人に晒し、それが恥とも思わないとは。これが、キルスティン子爵たる者の所業ですか。

 本当に滑稽です。



 ああ、百の侮蔑の言葉も足りない。

 千の凍てつく視線さえ、彼らの罪には物足りない。

 神に背き、全てを奪い、尊厳さえも笑いながら奪おうとしている彼らに、なにか、して差し上げられることはあるでしょうか?



 ──さあ、いかが致しましょう。





◇◇



 それから、少しばかりの時間が流れた。


 ダルネスはあれ以降、自分たちの行為を見せつけることすらなかったものの、リュネットに対する侮蔑は相変わらずであった。



 その一方で、ナルシアの行動は日を追うごとに過激になった。それまで密室で行っていた嫌がらせは、メイドや執事の前でも堂々と繰り返されるようになったのである。



 記すのを躊躇われるほどの嫌がらせを受けながら、しかしリュネットは、いくら攻撃されても決して反撃しなかった。

 


 やがてそれは、人を動かす事態になった。

 明確な派閥が生まれたのである。


 勝ち馬に乗ろうとナルシアに着く者。

 やられるリュネットに哀れみを抱き、手を差し伸べる者。


 彼らはナルシア派に報復を受けたが、リュネットはそれを謝りながら手厚く看護をつけた。

 

 

 リュネットは徹底して、慈悲と笑顔、そして耐え忍ぶ方をる。それらが功を奏したのか、リュネット派の使用人たちは、皆口を合わせてこう呟くようになっていった。



 『哀れみの奥方』『力になりたい』と。



 子爵の正妻で有りながら、ひどく不名誉な二つ名を背負うリュネット。


 彼女は彼らの声を運ぶように、今日も礼拝堂に通うのである。








 ──”我らが敬愛する神祖カルデウスよ。

 主の定め給うた〈魂の半身〉と、共に歩むべき道を見失いました。どうか聖なる御手により、貴方の御許へ還れるよう、光をお示しください……お示しください。”



 ダルネス領・セリアン地区。

 ここに佇むセリアン礼拝堂は、古くから民々の祈りの場として親しまれてきた。



 高くそびえるアーチ形の天井は声を吸い上げ、天へと届けてくれる。

 懺悔室の「響きの壁」は、祈りと懺悔の声を反響させ、その声を高く、高く響かせる。



 伝統的なステンドグラスから差し込む虹色の光に人々は、大いなる主・カルデウスを思いさらに祈りを捧げるのだ。



 リュネットの声もそれに漏れることはなく。

 透き通った彼女の声は、懺悔の壁を通し、場に響き渡った。


 

 それらは人の心をとらえ離さぬようで、リュネットが懺悔を終えた後はいつも、参拝客の視線を一身に集めていた。



 そんな視線をもろともせず、毎日通い詰めた、とある日。

 


 変化は突然訪れたのである。




 礼拝堂を出た彼女を待ち構えていたかのように佇む、見慣れぬ男性と目が合い、リュネットは思わず足を止めた。


(……あれは、プレニウスの紋章?)



 襟元でかすかに光を受けて揺れる金の装飾。

 それは、この地がダルネスの統治下に入る前、領主として君臨していたプレニウス家の紋章である。



(……前領主様の使いの者が、何の用かしら)

 


 そう身構えるリュネットに、男はゆっくりと一歩踏み出すと、礼儀正しく述べたのである。



「……リュネット・サルペント様ですね? 私、クルード・フォン・プレニウス伯爵に仕えております、ショーンと申します。クルード様が貴女にお会いしたいと申し出ております」






 クルード・フォン・プレニウス。


 幼いころから騎士を志し、若くして将となった生粋の騎士。

 現在26歳の彼は、国王直属の騎士団を統べる団長であり、その威厳と影響力は他の比ではないらしい。




 現外務卿・アレクサンドル・ヘルスティン卿に続く『国王の右腕』と噂されている彼は、『慧眼けいがんのクルード』とも云われ恐れられている。




 その彼が、なぜ自分に興味を持ったのか。

 リュネットは疑問に思いながらも、ショーンに連れられ彼のもとに赴いた。



 客間に通されてほどなく、現れたのは長い金の髪を束ねた男。紺碧の瞳に鋭さを宿し、冷静な理性が覗いている。



 噂に違わぬ神々しさに、リュネットは礼儀正しく挨拶をした。



 彼の人となりについては噂で耳にしていたものの、それ以上は計り知れない。


 ましてや、伯爵という高位の人間が、わざわざ子爵の妻である自分に面会を求めるなど、『考えが読めない』。



 サルペントへの商談か。

 はたまた、ダルネス子爵への口利きか。

 それとも、ダルネスの情報を抜こうとしているのか、ダルネス家の婚姻醜聞について耳にしたのか──。



 それらを頭の中で弾きつつ、体裁のいい笑顔で、疑念と警戒を隠すリュネットに対して……入ってきたプレニウス卿はというと、なぜか黙り、立ち尽くしたまま動かなかった。



 挨拶は終えている。

 返答がない。

 まるで幽霊でも見たかのように瞳を丸め、沈黙のクルードに──数秒。



 思わず目くばせをして、リュネットとショーンは互いに様子を伺った。


 はじめに動いたのはショーンの方。

 固まる主に「……クルード様?」と遠慮がちに声をかける。



 すると、一拍。

 クルードは我に返ったように顔を跳ね上げ、一変。その表情に険しさを宿し、重々しく口を開いた。



「……リュネット・サルペント殿。いいや、『ダルネス子爵夫人』。突然の呼び立て、失礼した。私はクルード・フォン・プレニウスという」

「……お噂はかねがね……、お会いできて光栄ですわ、プレニウス卿」

「…………」



 先ほどの沈黙は何だったのか。

 そう思うほど厳格に話始めたクルードに、リュネットはもう一度礼を送り、そっと目を細めた。



 先ほどの沈黙の真義は解らぬが、ただ一つだけ、明確にわかることがある。



 ──”探られている”。

 それを悟りながら、リュネットは気付かぬふりをした。






 

 談話は極めて平穏に進んだ。


 クルード・フォン・プレニウス伯爵は武骨な男だった。


 語る口調は貴族そのものであり、高圧的にも取れるが、それ以上に『厳格』という言葉が相応しい。



 軽い世話話などしなさそうな彼だが、意外にもクルードは、世間話を交えながらも慎重に問いを重ねてきた。


 そこから滲む、彼の配慮と何かの思い。


 話す言葉の端々に感じる、どこか痛みを帯びた色と眼差しを心にとめつつ。リュネットは終始、柔らかな笑みを絶やさなかった。


 

 一切の隙すら無く。

 作り物めいた均整な笑みで。

 ダルネスに「薄気味悪い」と言われたこの笑みは、このような場面では最高に便利だ。



 しかし、伯爵も強敵だった。

 言葉の端々から、何かを量る気配を感じる。

 鋭い視線がこちらを値踏みしているように感じる。


 しかし、彼女はそれらをすべて受け流しているふりをした。



 気取られてはならない。

 「薄笑いの淑女」として、リュネットは伯爵の言葉に調子を合わせながら、流れるように会話を進めていくと、次の瞬間。


 彼は、切り出すように言い始めた。



「……リュネット・サルペント殿。いや、今は『ダルネス子爵夫人』とお呼びするべきですね。我が騎士団の防備を整えるため、あるお願いをしたい」

「……おねがい、ですか?」


「ああ。ご存じのとおり、この辺りでは優れた盾の調達が難しくてな。以前のサルペント商会のご縁をお借りできればと思っているのだが――、貴女にとっても悪い話ではないはずだ。如何だろうか」


 その声には、優美な装いとは裏腹に、領主としての責任感と、相手を逃がさぬという強い意志が滲んでいた。



 が、しかし。

 

 リュネットは淑やかに眉を下げた。

 サルペントの販路はすでに、ダルネスの手に握られている。

 ダルネスに「伯爵様のお願いです」と口添えすることもできるが、あの男の益となるようなことはしたくない。


 それらをぐるりと頭の中で回して、リュネットはその表情を憂いと悲しみで飾り立てると、ささやかにほほ笑むのである。



「……申し訳ございません、プレニウス伯爵様。サルペントは、今はもう夫ダルネスの手の内……。わたくしの方から働きかけることは叶わないでしょう」



 述べた瞬間、場に同情の沈黙が落ちて──

 しかし、それを貫くような声は、クルードの口から放たされたのである。



「──おまえ、いつまでその皮を被り続けるつもりだ」


 


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