施療院に吹く春風
「皆さま、此方です。この裏手が職員用通用口となっています」
「おう。邪魔するぜ」
志津の案内で立派な正門を迂回して裏手に回り、簡素な木製扉を潜って施療院内へ入った。
「ただいま戻りました」
志津が看護師詰所に顔を出すと、奥から女性看護師が駆けてきた。看護師の着物は志津と同じ、菊に流水紋だ。前掛と看護帽の有無という違いはあれど、これが此処の制服なのだろう。
「おかえりなさい、志津さん。遅かったじゃ……そちらの方は?」
「色々あって、助けて頂いたんです」
志津が話している横で、雨竜は荷物を机の上に置いた。男の手で持って歩いても、それなりの重量を感じる大荷物であった。
「酔っ払いに絡まれてたんだ。其処をちっと西へ行った先の、港方面へ抜ける道だと思うんだが」
「やだ、もしかして西浦通り? あそこは最近治安が良くないから、近付かないよう言われていたじゃない」
「ごめんなさい……近道だと思ったんです。そんなに長い道でもないし……」
「それで襲われてるんだから、言うことは聞くべきだったわね。この方たちが助けてくださらなかったら、どうなっていたかわからないのよ」
志津はすっかり萎縮してしまい、小さくなって「すみません」と零した。
「あのう……治安が良くないというのは……?」
怖ず怖ずと千鶴が声をかけると、看護師は荷物を改めながら「海賊船が港の近くを彷徨いているらしいの」と答えた。
どうやら根ノ國付近の海で採れる珊瑚や姫真珠を目当てにした海賊と猟師が沖合で争っているらしい。しかも今後は政府軍も介入して大きな争いになりそうで、猟師は本来の仕事が出来ずに精神的な疲労や緊張、苛立ちなどが募っているのだという。
その矛先を海賊ではなく道行く一般人に向けるのはどうかと思うが、彼らの一部は「俺たちが苦労してるってのに暢気に観光なんかしやがって」という言い分で襲ってくるのだと、看護師は溜息交じりに話した。
「あなたも、殿方と一緒なら心配いらないかも知れないけれど、気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
話しながらも、看護師はテキパキと絵本の表紙を酒精綿で拭っては並べ、拭っては並べていた。オモチャも同様に清めてから箱に詰め、仕分け終わると雨竜たちに目を向けた。
「うちの看護師を助けて頂いたのに、お礼が遅くなってすみません」
看護師は深く頭を下げ、絵本の束を抱えた。
「私は菊川施療院の歌代と言います。申し訳ないのですが、間もなくお遊戯の時間になるので、少々応接室でお待ち頂けますか? 先生を呼んで参ります」
「あ、いや、そこまでしてもらうほどのことじゃ……」
言いかけて、このまま帰ってもまた施療院に入るのに難儀するだけだと思い至る。なにせまだ此処にいるという札がいったい何なのか、何処にいるのかすらも白雪から聞いていないのだ――――と考えて、今更に気付く。
白雪が、いつの間にか消えている。
「あァ? アイツ、何処行きやがった」
「お連れの白髪の方でしたら、先ほどふらっと出て行かれましたよ」
「マジかよ」
気付いていたならそのとき教えてくれ、と脱力しつつ雨竜が看護師詰所を出ると、上階から微かに歌声が聞こえてきた。子供の声なので白雪のものではなさそうだが、どうにも気にかかる。
「歌? いったい何処から……」
天井を見上げる雨竜の横で、絵本を抱えた歌代が「恐らく梅ちゃんだと思います。弐〇参号室に入院している子です」と答えた。「最近新しくお友達が出来たようで、よく一緒に歌っているんですよ」歌代が話す横をすり抜けて、志津がオモチャの箱を抱えて遊戯室へ運び込んでいく。
「……もしかしたら其処かも知れねェな。白雪見つけたら一緒に応接室で待ってりゃいいんだよな?」
「はい。では、私は準備がありますので、これで失礼致します」
お辞儀をして去って行く歌代を見送ると、雨竜は千鶴を伴って階段を上がった。
子供たちがいる施療院内に監視もつけず放置するとは、と思いかけて、ふと。
若い女である千鶴がいるから、ある程度信用されたのだろうと気づいた。元は単に観光地を見せてやろうという意図だったが、意外な効果が得られたものだ。
二階が近付くにつれて、歌声がはっきりと聞こえるようになってくる。一般に広く知られている童謡で、春夏秋冬それぞれの特徴を並べながら季節のうつろいを喜び、楽しむような歌詞だ。手遊び歌でもあるため、児童館などでは子供たちが歌いながら大人に倣って、小さな手で花を作ったり雨を降らせたりしている様子が見られる。
二階の廊下を見渡すと、すぐに目的の病室が見つかった。歌声が聞こえるだけではなく、病室前に白雪が佇んでいたからだ。
「白雪、どうした」
「鶯、まだ帰らないって。どうする?」
前置きなしに結論だけをポンと置かれ、雨竜は一瞬白雪の言葉を飲み込み損ねた。だが、病室を見てすぐに状況を理解した。
寝台に枕を背にして座る寝間着姿の少女が一人。見舞客用の椅子に腰掛ける和装の少年が一人。少女の目元は分厚い包帯で覆われており、確かめるまでもなく盲目だとわかる。
そして、鶯は少年のほうだということもすぐにわかった。何故なら彼の歌声は人のそれと明らかに違っていたから。高く遠く、やわらかく響く、小鳥の歌声。聞く者の心を震わせ、鮮やかな彩雲にも似た花霞を幻視させる。
暫し聞き入っていると、鶯は歌をやめてチラリと雨竜たちを見た。そして、盲目の少女の手を握りながら「……今日はそろそろ行かなきゃ。またね」と言って椅子から音もなく立ち上がった。
「うん、またね」
布団に潜り込みながら、少女が呟く。
鶯は無言のまま雨竜たちの傍をすり抜け、数歩進んだ先で振り向くと階下を指して目を伏せた。
「行くぞ、白雪」
「うん」
鶯に着いて行くと、まるで階下での話を聞いていたかのように迷いのない足取りで応接室へと入っていった。
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