1.3.3 チーム

 密花の要塞から解放され、外に出ると、夕暮れの気配が空気を重くしていた。ソレイナの太陽光透過率制御の威力が、さらにはっきりとわかる時間の訪れ。人々が自宅に、自室に戻り、共用の空間というものが減少することで殆どのソレイナが未使用になり都市の輪郭は曖昧に溶け始める。無音は、他人の会話のノイズや、まとわりつくような湿った空気から逃れるように、ふわりと数センチ体を浮かせる。早く、帰りたい。それだけを考えていた。

 路上には、一台の黒いセダンが停まっていた。八坂の車だ。無音と有朱は、この鉄の塊が放つ独特の存在感を既に知っている。案の定、初めてそれを見た密花が、ぴたりと足を止めた。その能面のような顔が、検知不能なエラーに遭遇したかのように微かに引きつっているのを、無音は視界の端で捉えた。

「何ですか、これ」

 密花の声は、未知の汚染物質を分析するかのように冷え切っていた。

「この車両の年式と装備から判断するに、高度な自動運転機能は搭載されていないと推測されます。八坂さん、まさかその腕で、これを手動で運転するつもりですか?」

「でしょー? すごいよね、八坂さん。超アナログなんだよお。原始人みたいだねえ」

 有朱が、密花の反応を楽しそうに煽る。無音は、そのやり取りにも興味を示さず、ただぼんやりと空を見上げていた。

 八坂は、すでに運転席に乗り込み、忌々しげに舌打ちをしている。

「はいはい、雑談はそのくらいにして、さっさと乗って。時間ないんだから」

 密花が後部座席のドアに手をかけようとした、その時だった。有朱が、悪戯っぽく笑いながら彼女の前に回り込んだ。

「密花ちゃんは助手席にしたらあ?」

 有朱が言うが早いか、助手席のドアを勢いよく開ける。瞬間、助手席からエナジードリンクの空き缶や正体不明の書類、小汚いぬいぐるみなどがなだれ落ちそうになり、強烈な異臭が解放された。

 密花は、本気で顔を引きつらせ、後ずさる。

「何よこれ! まるっきりゴミの山じゃないの!」

 その叫び声に、有朱は待ってましたとばかりに、けらけらと笑いながら言った。

「これが本当の腐敗警官だよお」

 腐敗警官。

 その単語が、無音の思考にノイズとして割り込んだ。昨日までの自分なら、無視していただろう。だが、スカウトされてからの一連の出来事が、彼女の中で何かの閾値を超えさせていた。完璧な要塞に立てこもる情報屋。世界の全部を燃やすと約束した爆弾魔。そして、腐りきった車に乗る、腐敗警官。あまりにも馬鹿馬鹿しい。くだらない。そのくだらなさが、無音の無関心の壁を、いとも容易く突き破った。

「ぶふっ」

 一度漏れた声は、もう止められなかった。こらえようとすればするほど、笑いの衝動が腹の底からこみ上げてくる。浮かんでいた身体が、自分の意思とは無関係にがくがくと揺れる。

「くくく……、あっははは! ひっ……ふ、腐敗警官……! あはははは!」

 視界が涙で滲む。息が苦しい。こんな風に笑うのは、いつ以来だろう。いや、生まれて初めてかもしれない。涙の向こうで、有朱と密花が呆気にとられた顔でこちらを見ていた。

「いいのよ、この車もどうせすぐスクラップだし。っていうか無音、あんたの初めて見た笑顔がこれかい。あんた、邪悪な顔で笑うわねえ」

 バックミラー越しに、八坂の呆れたような声が聞こえた。

 密花は、無音の爆笑を一瞥したが、すぐに冷静さを取り戻し、後部座席に乗り込んだ。

「有機物の腐敗と化学物質の揮発による複合的な悪臭を確認。換気システムの機能不全、あるいは許容量を超えた汚染。健康被害のリスクを考慮すると、この車両の長期利用は推奨できませんね。そもそも、八坂さんはエナジードリンク、飲めるんですか?」

「ボケ防止で色んな感覚からの刺激の入力が推奨されてて、たまに味覚を起動して使ったりするのよ。あとで腹の格納容器から汚水タンクを取り出さないといけないから面倒なんだけどさ」

 無音が密花に半ば無理やり車に引き込まれ、ついに四人が乗り込み、車が動き出す。八坂の荒々しい運転のせいでようやく笑いが収まってきた頃、無音は目の前の八坂の、ハンドルを握らずにだらりと垂れた片腕に気づいた。

「八坂、その腕、病院」

「ああ、これ? 脳以外はレンタルだからね。どうでもいいわ」

 八坂は、前方を睨みつけたままこともなげに答えた。その言葉の意味を、無音は深く考えようとはしなかった。面倒だった。それに何だか謝らないといけないことになりそうな予感があった。

「えー、いいなあ。有朱も機械の身体ほしいよ、メーテル!」

 有朱の叫び声が、狭い車内に響く。

「なにメーテルって? 何かのアニメ?」

「八坂さん、おばさんなのに知らないのおー?」

「おばさんだって知らないことくらいあるわよ」

 密花が冷静な、しかしどこか熱を帯びた声で解説を始めた。

「有朱が言及したのは、松本零士先生の名作SF漫画『銀河鉄道999』の登場人物、謎の美女メーテルのことです。主人公の少年が彼女と共に銀河超特急999号でアンドロメダ星雲を目指す物語で、哲学的テーマと独特の美的感覚は、1970年代後半から80年代初頭にかけての日本、まだ日本国があった頃の日本の若者文化に多大な影響を与えました」

  密花の解説は、止まる気配がない。

「オタク」

 無音が、ぼそりと呟いた。

「オタクというよりナード、いや変態盗撮魔だよお」と有朱。

「変態盗撮魔は今は関係ないでしょうが! そもそも変態盗撮魔じゃないし」と密花。

 有朱と密花が、子供じみた言い争いを始める。やかましい。思考が乱れる。重力制御が、ほんの少しだけ揺らぐ。ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を無視して、無音は再び意識を閉ざそうとした。

「ゼロ課は昨日までは都市伝説や陰謀論の記事を集めてスクラップブックを作ってるだけだったけどね、今からは違うわ。気合い入れなさいね」

 八坂がバックミラーで少女たちを見ながら言った。とはいえ、彼女の声も、三人の異常なアセンブラのスカウトの後だからか気怠そうだ。可哀想なおばさんだった。

「エナドリ、飲んだら」と無音。

「や、カフェインが効かないから、あんまり覚醒作用がないのよね。純粋に甘味目的」と八坂。 

「いよいよ本物の陰謀が私たちの目の前で始まったってわけですね。興味深い観測対象です」

 密花が、いつもの冷静さを取り戻して言う。

「やったー! なんか映画のはじまりっぽーい!」

 有朱は、一人興奮して目を輝かせた。

「主役はもちろん有朱だよね! バッドアスな仲間たちを引き連れて、巨悪を爆破!」

 その声は、ゴミとカオスとオタク知識と陰謀論が渦巻く、奇妙なチームの船出を告げるファンファーレのようだった。

 うるさい。早く帰りたい。無音は、心の中で、今日何度目になるかわからない言葉を、再び繰り返した。

「あ、無音、あなたはゼロ課アセンブラ班の班長ね」

「帰りたい」

 残念なことに、既に前方には内務市民委員部本部施設の威容が現れていた。

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