1.3.2 アセンブラ氷室のスカウト
雑居ビルの奥深く、重々しい鉄扉の前で八坂は足を止めた。背後では無音は相変わらず物のように浮いており、その無音の手を有朱が何度も引っ張って上下させ風船を持つ子どものように遊んでいる。
「やめろ爆弾女」
「なんか癖になるよお」
この扉の向こうに最後の一人、氷室密花がいる。八坂は、扉に埋め込まれた複数のレンズを冷静に観察した。標準的な可視光カメラに、赤外線サーモグラフィ、微弱な電磁波を捉えるための指向性アンテナまで備わっている。廃墟同然のビルには不釣り合いな、完璧な要塞だ。
「うわー、ここなんかハイテクな匂いがプンプンするー!」
有朱は、食べかけのお菓子の袋を片手に、もう片方の油で汚れた指を鉄扉に伸ばそうとした。
その指が金属に触れる寸前、インターカムからクリアだが抑揚のない、合成音声のように冷徹な声が響いた。
「警告。これ以上の接近は敵対行為と見なします」
声はそこで一度途切れ、訪問者の名前を一つずつあげていく。
「有朱。あなた、べたべたの手でドアに触れないでくれる?」
「有朱は汚くないよお」
有朱がカメラのレンズを親指で押す。
「やめてー!」
声からすっかり冷徹さが失われた。有朱がゆっくりと指を離すと、咳払いの後に元の声音に戻った。
「無音。体内ソレイナ・エンジンの稼働率、通常待機状態を7%超過。精神的な昂ぶりを検知。リラックスを推奨するわ』
「爆弾女が引っ張ってくる。苛々する」
そして最後に、声は八坂に向けられた。
「八坂八重。左腕義体のマイクロモーターに0.12秒の反応遅延を検知。無音との戦闘での損傷が、まだ完全には修復されていないようですね」
八坂は内心で舌打ちした。こちらの素性も、状態も、全て筒抜けだ。交渉の主導権は、最初から相手に握られている。
「氷室密花」
八坂は、動揺を一切表に出さず、インターカムに向かって毅然と告げた。
「そう、内務市民委員部特別査察局第0課の八坂八重よ。貴女にオファーがあってね」
数秒の沈黙の後、重いロックが外れる音と共に、鉄扉が静かに内側へスライドして開いた。薄暗い部屋の奥、無数のモニターが放つ光の中に、短い髪の、少年のような少女のシルエットが浮かび上がる。
「どうぞ。話だけなら、聞いてさしあげます」
八坂が部屋に足を踏み入れると、密花は無数のモニターに囲まれた椅子に座ったまま、こちらに視線を向けずに言った。この少女の情報網に感嘆すら覚えながら、単刀直入に切り出した。
「召集よ。あなたにも、我々のチームに加わってもらう」
密花は、そこで初めてキーボードを打つ指を止め、椅子を回転させて八坂と向き合った。能面のような無表情のまま、彼女は即答する。
「却下します。あなた方に協力する時間的リソースは、私にはありません」
「忙しいのはわかっているわ」
八坂は、この揺さぶりにも慣れていた。何せもうアセンブラの少女を相手にするのはこれで3人目だ。ここからが本番だ。
「その貴重なリソースを割いて、市国の全情報認知システムの映像ログを、ここ最近、何度もハッキングしてるわね?」
八坂の言葉に、密花の眉が初めてぴくりと動いた。
カマをかけただけの言葉だった。だが、密花の僅かな変化を、八坂は見逃さなかった。揺さぶりは効いている。畳み掛ける。
「太陽の所有者関連の不正アクセス未遂なんて面白いネタもあるし、あなたのその“お城”、別の罪状で二、三台押収すれば、何かとんでもないものが出てくるんじゃないかしら?」
これで落ちる。八坂はそう確信した。どんなにハイスペックな情報屋でも、物理的に拠点を失う恐怖には抗えない。
しかし、密花の反応は八坂の予測を裏切った。彼女は焦るどころか、能面のような顔に、初めて興味の色を浮かべた。
「面白いことをおっしゃいますね、八坂さん」
密花はそう言うと、メインモニターの表示を切り替えた。そこに映し出されたのは、複雑な組織図と予算執行のフローチャートだった。その頂点には、見慣れたエンブレム――内務市民委員部特別査察局のそれがある。
「あなたの言うゼロ課……。表向きは、1課の極右、2課の極左、3課の国際テロとは別に、今や米中と並んで三極を形成するパン・パシフィック・ソーラー・サプライヤーズ・クラブだけを専門に調査分析する部署として設置されている。そう記録にはあります」
八坂の背筋に、冷たいものが走った。この少女は、ただ部署名を読み上げているのではない。内務市民委員部の中でもエリート集団である特別査察局――その中核をなす各課の役割を正確に把握している。国内の過激思想団体と反体制組織を監視する1課と2課、そして華々しい実績で知られる国際テロ対策の3課。それらは市民にも存在が知られた「表」の組織だ。その上で、誰も知らないはずの「0番目」の課の存在を看破している。
「ですが、私の分析結果は異なります」
彼女は続けた。
「課員は、あなたと蘇枋鈴という課長の二人だけ。設立以来、活動実態はほぼゼロ。予算執行の大半は、三文雑誌と新聞の購入費。そして、インフォーマントへの支払実績が皆無にもかかわらず、不自然に膨大な交際費。それから、通信設備も不自然ですね。これだけが最新式で、軌道ステーションとの通信すら可能なVR装置まで完備されている」
インフォーマントへの支払実績が皆無――その一言が、八坂の思考を鈍器で殴られたかのように揺さぶった。内務市民委員部において「インフォーマント(協力者)」とは、厳格な身元調査と登録手続きを経て、公式な情報提供者としてリスト化された存在だ。彼らへの支払いは「調査協力費」として正確に記録され、その記録こそが諜報活動の根幹となる。支払実績がゼロということは、ゼロ課が公式な情報網を一切持たないことを意味する。それなのに、膨大な交際費だけが計上されている。それは、この部署の活動が完全に裏帳簿で動く、公式記録に残せない「何か」であることを示す状況証拠だ。
「結論を申し上げます」
密花の凍るような瞳が、真っ直ぐに八坂を射抜いた。
「ゼロ課は調査部門などではない。実態は、恐らく太陽の所有者との非公式な折衝を行うための、治外法権の『大使館』。緊急事態、つまり総裁が爆死したような時のために、太陽の所有者が内務市民委員部内に作らせた特殊部門ですね。その存在自体が、内務市民委員部における最高機密。この分析結果、単なる状況証拠の羅列ではありますが、マスコミにリークした場合、あなた方の“お城”はどうなるでしょうか?」
カウンター脅迫。それも、完璧な。
八坂は、自分が完全に二手先を読まれていたことを悟った。この少女は、こちらが差し出すカードを全て予測し、最強のカウンターを用意して待っていたのだ。
「降参」
八坂は、短く告げた。
その言葉に、部屋を支配していた緊張が、わずかに緩んだ気がした。やはり子どもだ、と八坂は思った。アセンブラ氷室は自分の推論が認められたことを、能面のような顔の下で喜んでいる。八坂は、交渉のテーブルをリセットする。
「だから、取引しましょう。私たちには、あなたのその“眼”が必要。あなたは何が欲しい? 何が欲しくて、そんな危険な橋を渡っているの? 太陽の所有者の力があれば、もっと安全に全情報認知システムに触れられるわよ。この仕事はきっとそのアクセス権になる」
密花は、しばらく黙って八坂を見つめていた。その瞳の中で、高速で何かが計算されているようだった。やがて彼女は、視線をメインモニターの一つに落とす。そこには、古い写真らしきものが、ノイズ混じりにぼんやりと表示されていた。写真には、幼い密花と、彼女の手を引く男女の姿が映っている。
「パパとママを探していました」
か細い、しかし確かな意志のこもった声だった。
パパとママという両親の呼び方の選択に、八坂は、ようやく彼女の核心に触れた気がした。圧倒的な情報処理能力も、鉄壁の防御も、全てはこのたった一つの、人間的な目的のためにあったのだ。
「見つかるといいね」
部屋の隅で、有朱が珍しく神妙な顔つきで言った。
「有朱のお母さんは、アリスちゃんがちっちゃい頃、燃えちゃったからなあ。あはー」
すぐにいつもの調子に戻り、あっけらかんと笑う。
無音は、ぽつりと呟いた。
「……会ったことない」
八坂は、三人の少女の顔を順に見渡した。誰もが、それぞれの形で家族というものを失い、何かを探している。そして自分は、そんな彼女たちを率いて、この狂った街の闇に挑まなければならない。
「行きましょうか」
八坂は、覚悟を決めて言った。
「私たちの仕事に」
その言葉に、密花が静かに顔を上げた。その瞳には、すでに次の分析が始まっているかのような、冷たい光が宿っていた。
「なぜ太陽の所有者が動き出したのですか? この街がどうなっても、地球の表面に住む猿どもがどうなっても、彼らは何も気にしないと思いますが」
質問。最初の、仕事に関する質問だ。八坂は、その鋭い問いに内心で舌を巻きながら、答えた。
「それは課長に説明してもらいましょう」
「その課長という方も実在せず、本当は太陽の所有者のエージェントの総称か何かではないのですか?」
密花の疑いは、底がなかった。八坂は、存在しないはずの胃が痛むのを感じながら、首を横に振った。
「大丈夫、課長は実在するわ。果物を皮ごと食うのよ」
「ああ、林檎とか」と密花。
「パイナップルも皮ごと食うわよ」
「強そうだなあ! おらワクワクすっぞ!」
有朱が、拳を握りしめて目を輝かせる。八坂は、そのあまりにも古典的なセリフに、今度はこめかみが痛むのを感じた。
「何よその古き良き少年漫画みたいな台詞は」
密花が、心底呆れたというように有朱を見る。
「変わってる人なのは間違いないわ」
密花は無音と有朱をちらりと見やり、ため息をついた。
「彼女たちに比べれば、誰でも普通だと思いますが」
「この中で一番常識があるのはわたし」
ふわふわと浮きながら、無音が静かに主張した。その言葉に、有朱と密花が一斉に食ってかかる。
「有朱が一番常識あるよお。無音ちゃん密花ちゃん、自炊したことある? 有朱は毎日してるよ」
「な、ない」と無音。悔しそうに。
「自炊くらいで何よ。犯罪者のくせに」と密花。
「変態盗撮魔の密花ちゃんが一番非常識な存在だよお。あはー」
「もう一回言ってみろ」
「……パラノイア」
「私の家からはやく出ていきなさいよ!」
八坂は、目の前で始まった子供じみた喧嘩を前に、これから始まる日々の、あまりの多難さを確信し、天を仰ぎたくなった。これが、自分の率いるチームだというのか。だが天を仰いでもそこには地球を捨てた富裕層しかいないのが、今のこの世界だった。
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