第38話:「藍の終結(Tav)」
風が、止んでいた。
イェソドの湖面は、穏やかに凪いでいた。
あれほど多くの夢や記憶が泡立っていた水面は、まるで眠っているかのように静かだった。
その鏡のような水の中央に、ひとすじの藍色の道が伸びていた。
私はそこに立っていた。
それは“出口”であり、“入口”でもあった。
全てを巡り終えた者だけが踏み出せる、最終のパス。
Tav――印章の径。
私はその道を見つめる。
すでに白炎の審判を越えた私の胸の中には、
恐れも、不安も、もう残っていなかった。
あるのは、ただひとつ――「歩む意志」。
ゆっくりと足を踏み出す。
水の上とは思えないほど、確かな感触があった。
それは、私が今ここに“在る”という確信そのものだった。
目の前には、微かに震える光の門が見えていた。
その向こうにあるのは、マルクト。
現実世界。
私がこの旅を始める前に立っていた場所――そして、今やまったく別の姿で立ち戻るべき場所。
風が吹いた。
藍色の風。
それは静かで、冷たく、どこか懐かしい香りを運んでいた。
かすかに、あの声が聞こえた気がした。
「……アイン」
それはアインソフオールの声だったのか、
それとも、ずっと旅を見守ってきた“私自身の中の誰か”だったのか。
私は目を閉じた。
心の中に、出会ってきた全ての存在が浮かんだ。
ステンマ、ソフィア、スィネシス、ヴァシリア……
光のセフィラたち。
彼女たちの知恵や慈しみ、痛みや導きが、私の中に根付いている。
そして、影の声もあった。
見ないようにしていた声。
否定し、拒絶し、逃げた声。
だが、それすらも今は愛おしい。
全てを抱えた私は、最後の一歩を踏み出す。
門が開いた。
そこは、まるで胎内のような暗さだった。
だが、それは不安を煽るものではなかった。
むしろ――温かかった。
“世界”が、私を迎え入れようとしていた。
ゆっくりと光が差し込んでくる。
それは、外からではなかった。
私の内側から、じわじわと染み出してくるような光。
藍色の輝きが、私の胸の奥から溢れ出す。
それは、旅のすべての“痕跡”だった。
選んだこと、失ったこと、理解したこと、赦したこと。
誰かに愛されたこと、誰かを愛そうとしたこと。
そして、自分自身を“この私”として受け入れたこと。
そのすべてが、ひとつの“印”となって、私の存在に刻まれていく。
これがTav――終わりの印。
だが、それは終わりであると同時に、始まりでもあった。
門が、完全に開く。
私は光の中を歩く。
目の前に広がっていたのは、あの世界だった。
けれど、それはもうかつて見ていたものではなかった。
空が深い藍に染まり、
大地は静かに息をしていた。
私は、戻ってきた。
だが、“新しい私”として。
私は、今ここに“いる”。
それは、旅の果てにようやく得られた、たったひとつの真実だった。
私はそっと、地面に触れた。
その感触は、懐かしく、そして初めてのように新しかった。
私の背後で、光の門が静かに閉じていった。
その音は、まるで世界が静かに目を覚ましたかのようだった。
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