第26話:「潜水の吊男(Mem)」

 世界が、裏返った。

 それは突如として訪れた。

 私はいつも通り、地を踏み、空を見ていたはずだった。

 だが次の瞬間、足が空を掴み、視界は水に沈んでいた。

 上が下になり、前が後ろになり、

 私の身体は、まるで“ひっくり返されたカード”のように空間に吊られていた。

 重力がなかった。

 音も、なかった。

 ただ、深海のような静寂が、私を包んでいた。

 そこは道ではなかった。

 どこかへ向かうこともできなかった。

 そこは“浮かぶことも沈むことも意味を持たない場所”だった。

 私は、自分が“ぶら下がっている”ことに気づいた。

 何かに縛られているわけではない。

 だが、自ら足を引き上げることも、視点を変えることもできなかった。

 私は、逆さまの視界から、世界を見た。

 すべてが、異様だった。

 空は海の底のように澄んでいた。

 光は上からではなく、下から湧き上がっていた。

 時間が流れているのかさえ分からなかった。

 私は考えた。

「私は……ここで、何を学ぶのだ?」

 声にならない問いが、空間に溶けていった。

 代わりに返ってきたのは、何の感情もない映像だった。

 それは、私がこれまで出会った者たちの“裏側”だった。

 ステンマの威厳の裏にあった、孤独。

 ソフィアの知の裏にあった、未熟さ。

 スィネシスの理解の裏にあった、断絶。

 エレオスの優しさの裏にあった、距離。

 ディナミスの強さの裏にあった、苦悩。

 そしてティファレトの調和の裏にあった、自己否定。

 私は、それを真正面から見ることを、これまで避けていたのかもしれない。

「理解した気になっていた」

 その言葉が、心に浮かんだ。

 私は多くを知ったつもりでいた。

 だがそれは、理解ではなかった。

 それは、都合よく編集された“解釈”だった。

 私は、誰かの痛みを“正しさ”で包み込んで、

 それを“納得”という名の檻に閉じ込めてきたのかもしれない。

 そして、そうすることで、

「もう大丈夫だ」と自分に言い聞かせていた。

「吊るされた男」とは、

“吊るされることで見えるもの”を受け入れる者だった。

 私は、もう一度周囲を見た。

 そこには、逆さまの世界が広がっていた。

 だが、奇妙なことに、その景色は“どこか美しかった”。

 理由は、すぐに分かった。

 それは、本当はずっとそこにあったのに、自分が目を背けていた側面だったからだ。

 私は、逆さのまま目を閉じた。

 そのとき、足元——いや、頭上から、

 音もなく誰かが降りてきた。


 降りてきたのは、影だった。

 光を背負っているのに、黒い。

 輪郭は曖昧で、言葉を持たず、

 だが確かな意志だけがこちらを向いていた。

 それは、誰でもなかった。

 けれど、どこかで出会ったような気がした。

 声はなかった。

 だが、思考が響いた。

 ——「それで、何を見ていた?」

 私は答えられなかった。

 目の前のこの存在は、私の“視座そのもの”を問うていた。

 吊られた者。

 見下ろす者。

 見上げる者。

 どこに立つかで、すべての意味が変わる。

 正義も、理解も、愛も、真実も——

 見る角度が変われば、すべてが“逆”に感じられる。

「私が見ていたのは……自分に都合の良い断面だけだった」

 その言葉が浮かんだ瞬間、

 私を吊っていた見えない“支柱”が消えた。

 身体が、宙に放たれる。

 もう上も下もなかった。

 私は回転しながら、深く沈んでいく。

 ——すべてを失ったとき、

 ようやく“自分の目”で見ることができる。

 そんな声が、空間のどこかでささやいた。

 私は、落ち続けた。

 水は青く、やがて濃緑に変わっていった。

 その深みのなかで、私はひとつの“反射像”と出会う。

 それは私だった。

 だが、その顔には“私が知らない表情”があった。

 泣き顔でも、笑顔でも、怒りでもない。

 それは、「何もわからない者の顔」だった。

 私は、驚いた。

 私には、“知らない自分”がいた。

 そしてその自分は、何も知らないからこそ、

 誰よりも多くを見ようとしていた。

 私は、その顔を抱きしめた。

 空間が泡立つ。

 水が光り、重力が反転する。

 私は、浮かび始めた。

 その顔を胸に抱えたまま、

 私はゆっくりと、元いた場所へと戻っていく。

 そこに、吊るされた男はいなかった。

 かわりに、私自身が立っていた。

 今度は逆さまではない。

 正位置でもない。

 ただ、そこに“等しく存在していた”。

 視界が晴れる。

 世界が、もう一度立ち上がる。

 私は目を開けた。

 周囲には、見慣れた景色が戻ってきていた。

 だが、すべてが少しだけ“柔らかく”見えた。

 それは、理解が深まったからではなかった。

 むしろ、理解の限界を知ったことで、他者を信じる余地が生まれたからだ。

 私は歩き出した。

 次に向かうのは、ホド——思考と伝達、そして“形ある言葉”の領域。

 私がこれまでに得てきたものを、

 これから“他者に伝える手段”に変えていく場所。

 だが今はまだ、沈黙のままでいい。

 この深海で得たのは、言葉ではなく、

“黙って見つめるという優しさ”だったからだ。

 私は、最後にもう一度だけ掌を開いた。

 そこには、あの反射像と重なった自分の輪郭が、

 淡い光となって残っていた。

 それが、私の“裏返された核心”だった。

 私は、それを心にしまい、歩き出した。

 ホドの門が、遠くに見え始めていた。

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