第25話:「翠鞭の均衡(Lamed)」
霧が流れていた。
それは水でも煙でもない、濃密な思考のような霧だった。
私はそのなかを歩いていた。
足元が見えない。
進んでいるのか、戻っているのかすらわからない。
けれど、私の背中にはまだ、ティファレトの光があった。
その残響のような熱が、わずかに前方を照らしている。
そして——その光が届かぬ先に、翠(みどり)の閃光が閃いた。
霧の向こうに、鞭のように走るエメラルドの稲妻。
それは空を割り、霧を切り、私の胸に何かを突きつけてきた。
「裁け」
その言葉が聞こえた気がした。
「誰を? なぜ? 私に何の資格が?」
問う声は、霧に吸い込まれていった。
私は歩を進めた。
やがて霧が割れ、広場のような場所に出た。
そこにはひとつの天秤があった。
天秤の片方には、石の心臓。
もう片方には、羽根のような光。
私は、息をのんだ。
それは、この場所の“裁定の儀式”だった。
「重さを比べろ」ということ。
「心」と「真理」。
「現実」と「理想」。
「欲望」と「倫理」。
あるいは——「私」と「他者」。
私は、天秤の前に立った。
すると、霧の中からひとりの人影が現れた。
顔は見えなかった。
だが、その者は膝をついていた。
自らの罪を認める者の姿勢ではなかった。
それは、「自分が罪なのかどうかもわからない者」の姿だった。
私は戸惑った。
「私は、この者の何を見て判断すればいい?」
誰も答えなかった。
だが、私は知っていた。
この裁きは、「知っているかどうか」ではなく、
「自分の中にある“基準”で下すしかない」ものだった。
だが——その“基準”が、私にはなかった。
私はまだ、自分の正しさを信じきれていない。
そしてそれは、正義の場においては致命的な迷いだった。
再び翠の閃光が走った。
それは、私の足元を貫いた。
私は倒れた。
その瞬間、見えた。
かつて、私が心のなかで“裁いた誰か”の顔。
届かなかった言葉に怒りを覚えた相手。
わかってくれなかった教師。
自分だけが見捨てられたと思った日々。
助けてくれなかった世界。
私は——いつのまにか“裁く者”であり続けていた。
そのことに気づいた瞬間、
天秤の羽根が震え、石の心臓がひとつ脈打った。
私は、ひざをついたまま、静かに目を閉じた。
「私は……あなたを裁けない。
なぜなら、私が私をまだ裁ききれていないから」
その言葉が落ちたとき、天秤が止まった。
そして、霧がすっと晴れた。
私はゆっくりと立ち上がった。
そして言った。
「でも、あなたの重さを“測る”ことならできる」
それは、誰かに優劣をつけるためではない。
“その人の持つ痛み”と“生きてきた重み”を、
ただ“同じ目線で見ようとする”ということだった。
それが私の出した“均衡”だった。
静かだった。
さきほどまでの風も、霧も、稲妻も、どこかへ消えていた。
私はただ、天秤の前に立っていた。
片方には、石の心臓。
もう片方には、羽根の光。
だが、どちらが正しくて、どちらが重いのか——
その問い自体が、私の中で意味を失っていた。
「人は、誰かを裁かずに生きられるか?」
私はそう問いかける。
それは、他者に対してではなかった。
自分に向けての問いだった。
私の内には、今も“基準”がある。
許せないもの。
理解したいもの。
でもできないもの。
それらをどうにか線引きしようとする本能が、
私の内側に常に炎のように揺れていた。
だが、その火はもう、誰かを焼くためのものではなかった。
それはただ、暗闇の中で自分を見失わないための灯だった。
天秤の上の羽根が、微かに揺れた。
私はゆっくりと、人影に近づいた。
その者はまだ顔を上げていなかった。
けれど、私は知っていた。
それは“誰か”ではなかった。
私の中にある、もう一つの判断基準だった。
「私は、おまえを許すことはできない」
私はそう言った。
その言葉は、決して“非寛容”ではなかった。
「でも、おまえがそうなるに至った“背景”を、私は理解しようとする」
それは、責任をなかったことにするための言葉ではない。
それは、裁きの正しさを“関係性の再構築”へと昇華するための宣言だった。
人影が、静かに顔を上げた。
その顔は、やはり見えなかった。
だが、見えないままで良いと思えた。
私が見たかったのは“顔”ではなく、“重さ”だった。
重さとは、選択してきた記憶の蓄積だ。
願ったもの。奪ったもの。失ったもの。
すべてが等しく、その者の“形”をなしている。
私は、天秤の片側に、自らの手を添えた。
そしてもう片方に、掌でそっと“羽根”を下ろした。
秤は揺れた。
だが、傾かなかった。
完全な釣り合い。
私は、驚いた。
だが同時に、深く納得していた。
「これが“均衡”か……」
それは、数学の答えではない。
倫理の勝利でもない。
それは、一時の対話によって成立する、脆くも美しい平衡だった。
私は天秤の前から一歩退いた。
霧の奥から、翠の鞭がもう一度閃く。
だがそれはもう、裁きを下すものではなかった。
それは、“判断の後に残る責任”としての光だった。
私はその閃光を背に、振り返らずに歩き出した。
このパスを抜けた先に、待っているものがある。
それは、思考と共感の領域——ホド。
そこでは、言葉が力を持ち、
人の思考が他者に触れる形で伝達される。
私がこれから語るものは、
もはや“自分のための理解”ではなく、
“誰かの重みを知るための言葉”となる。
私は、手を開いた。
中には、先ほど天秤にかけた羽根があった。
それは私の“尺度”となるだろう。
もう一度、あの裁きの場に立たされるときが来ても、
私はきっと、その羽根を基準に立つ。
正しさとは、揺らぎのなかにある。
私は、そう確信しながら、
歩を進めた。
次なる門が、私を迎えるように微かに開いていた。
私は、そこへ向かった。
すでに心は、ホドへ。
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