第36話 アグロボロネア
フェルフリードは猛吹雪の道を走っていた。
雪の重い足取りの中でもできるだけ早く動き続ける。
彼はかなり焦っていた。身体に残っている疲労なんて忘れるほど血眼になって消えた最愛の人を探し続ける。
「ロア殿‼ ロア殿‼ 返事をくれ‼」
しかし、猛吹雪の中で声は全く響かない。虚しい静寂だけが漂ってしまう。
「はぁはぁ……くそ‼ なんで俺は眠っていた‼ あのロア殿の精神状態を考えなく‼」
ロアの想像とは逆にフェルフリードは全く彼女に対して怒っていない。腹が立っているのは自分自身の不甲斐なさに対してだ。
何の訓練もしていない彼女が歩いて出て行った足音に気付かなかった自分を。暢気に眠っていた自分を。
あれほどロアを守ることを心の底から誓った結果がこれだ。
許せずはずがない。
「ロア殿‼ ロア……」
そのとき、急に吹雪が止んだ。
真っ白な世界が一転して鮮明な光景。満月に照らされ夜中とは思えないほどに明るくなっているから尚更だ。
相変わらず地面には雪が積もっており真っ白なことには変わりはない。木々が疎らに立ち、殆ど雪だけの殺風景だ。
しかし、上を見上げれば星の輝きで埋め尽くされていた。
美しい光景だったがフェルフリードは目の先に背を向けて立つ女性に目を奪われていた。
漆黒のドレスに身に纏い金色の髪を背に流している女性。
「ロア殿……」
服装は変わっており髪色も染めていた色とは違う。少なくない変化だがフェルフリードが見間違えるはずがない。
彼女は彼が最も大切にしている人。ロア・ヴィアモンテに間違いない。
しかし、フェルフリードは冷や汗を滲ませるだけで動くことができなかった。
もはや、彼女はロアの姿でありロアではない。纏う雰囲気がそれを訴えてくる。
「遅かったですね。あなたはいつも遅い。だから、誰も守れない。無駄に希望を与えるだけ」
振り向いた黒の瞳を持つ魔女は不気味な笑みを浮かべて大袈裟な身振りで煽ってくる。その言葉には魔女の本音が込められている。それほど力が入っているように彼は感じた。
しかし、それだけではない。
その言葉にはフェルフリードの心を動揺させる狙いもあった。
もちろん、彼はそのことを理解していた。
だからこそ、揺らぐことなく言い放つ。
「それならば、また取り戻せばいいだけだ‼」
フェルフリードは宝剣を抜く。
「私はあなたを許せない。力もないくせに彼女を誑かし、上辺だけの希望を与えたあなたを。まだ、希望を与えようとするあなたを‼ 王族だからではありません。私はあなた個人を許さない‼」
そして、アグロボロネアは憎悪をフェルフリードに放つ。
身の毛がよだつほどの得体の知れない圧がフェルフリードに襲いかかる。
今まで以上に強烈だった。まるで心臓を鷲掴みされているかのような気分だ。
「うおおおおおおおおお‼」
フェルフリードは気合いで圧を吹き飛ばしてその勢いのまま地面を蹴った。
しかし、アグロボロネアは余裕の笑みを浮かべている。
「……さて、あなたにこの身体を傷付けることができるのか見物ですね」
一直線に進んでいき宝剣を振り下ろす、ことはできなかった。
「フフフ」
フェルフリードの自ら体勢を崩した姿に笑みを零すアグロボロネア。そして、彼女の拳は躊躇も慈悲もなくフェルフリードの顔を打ち抜いた。
「がっ‼」
吹き飛ばされ雪の地面を跳ねて転がっていく。
「ぐあ……」
女性の拳とは思えないほどの強烈な一打。左頬が痺れ鈍痛を帯びている。
それでもフェルフリードはふらつく身体を起こして立ち上がり宝剣を構える。
「宝剣ウンディーネ。その力を使わないのですか。それならば私を倒すことはできずとも凍り漬けにして封印することは叶うでしょう。とはいえ、あなたの最愛の人と一緒にですが」
「ぐっ……」
そして、憎悪の魔女アグロボロネアはクスクスと笑う。
やがて、大笑いに変貌した。
「アハハハハハハ。そんな都合のいい話はありませんよ‼ 私はこの世に見捨てられた者を依り代として蘇る。その依り代からも自ら離れることもできます! 封じ込められるのは彼女のみです!」
アグロボロネアは胸に手を当てて目を瞑る。
「私は……この子のように甘くはない。優しくはない。与えられた苦しみをそれ以上にして返すまで、滅ぼすまで気が収まらない。それが私、憎悪という存在なのです。あの子も私の根源を見れば分かるはず。分かってくれるはず」
その言葉にフェルフリードは目を剥く。
「ロア殿に、ロア殿に何をした‼」
フェルフリードのその一言がアグロボロネアの雰囲気が一変させた。誰もが感じるほど明らかに雰囲気が激昂している。
途轍もない圧を前にフェルフリードは耐えることしかできていない。
彼女はゆっくりと歩いてくる。その真っ黒な瞳には誰でも分かるほどの怒りが込められていた。
「なぜ‼ それを‼ あなたに‼ 言う‼ 必要が‼ あるのですか‼」
すぐ目の前に立ったアグロボロネは渾身の拳を突き出した。
フェルフリードは竦んでいる身体を無理やり動かして宝剣の刀身を迫り来る拳の軌道に構える。そして、アグロボロネアの拳が宝剣の刃に衝突した。
衝撃に耐えきれずフェルフリードは後ろに飛ばされたものの宝剣を地面に突き刺して衝撃を弱めることで着地した。
「はぁはぁ……あぶなかっ……っ!?」
フェルフリードが目に拳から血を流しているアグロボロネアの姿。いや、ロアの姿が入った。
「あ、ああ……なんて……ことを」
痛みで顔を顰めているその姿はロアにしか見えなかった。
フェルフリードは酷く動揺する。自分が守っていくと心の誓った人を自分の手で傷付けた。
その心の弱ったところを狙われた。
「がっ、ゴホゴホ‼ ゴホッ‼」
喉の奥から濁流のような血が溢れ出す。目からも血の涙が湧き出した。
この症状と感覚。
そこでようやくフェルフリードは初めて宝剣の力を使ったときに生じた副作用と同じだと感じた。
だが、それが分かったところで彼女の憎悪に侵食されたという事実は覆らない。
みるみる力が弱っていき、それに呼応するかのように出血が活発になる。
負の連鎖だ。
「ようやく隙を見せてくれましたね。確かにあなたは強い。あなたが彼女を想わずに私を殺すつもりで来ていたのなら話は変わっていたでしょう。しかし、だからこそ、あなたが邪魔なのです!」
倒れるフェルフリードの首を持って持ち上げる。
「がっ……」
かなりの力が入っており、息ができない。
アグロボロネアは苦しさに藻掻くフェルフリードの顔に憎しみを込めて睨み付ける。
その間もフェルフリードの口からは血が漏れ出ていた。
「あなたがいるから……」
アグロボロネアは手刀を作りギラギラと光る長く尖った爪をフェルフリードに向ける。
「あなたがいるから‼」
ふっと首を握っていた手が緩み身体が落ち始めた刹那、手刀が突き出された。
その速度に避けることは不可能だと確信した。
フェルフリードはここまでかと自身の情けなさに歯噛みしながらも悔しさを滲ませる。せめてもの抵抗としてただ目を離すことなく迫ってくる爪を見続けた。
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