第6話 理想は夢

 気が付くと私は夜の森の中をふらふらと歩いていました。


「私は何を……」

 

 何があったのかよく覚えていません。


 私、いつの間に館から出たのでしょうか。見たこともない場所ですし。

 

 ……あれ? 何かを忘れているような……私は……。

 

 ふと、視線を下に向けると私の装いが目に入ります。

 

 小汚い亜麻色の布一枚、服とは到底呼べない代物。最低限の所だけを隠しただけ。胸の膨らみで丈が奪われて膝下が隠れていません。

 

 それでようやく身体の変化に気が付きました。よくよく考えてみれば視界がかなり高くなっています。

 

 な、なんで私、こんなに大きく……。

 

 疑問に感じているのも束の間、そんなことは些事にしか思えなくなりました。

 

 雲の隙間から漏れた月光が私を照らし、闇夜に紛れていたものが明らかになることで。


 身に纏っている布きれの殆どが生々しく赤黒く染まっていました。元の亜麻色の部分は極僅かなほどに。


「あ、あああああ」


 そして、私はあの女性、アグロボロネアに監禁されていた日々を思い出しました。

 もちろん、最後の出来事も。


「あああああああああああああ‼ いや! いや‼ おもい、だしたくない‼」

 

 近くにあった木に私は頭を何度も叩きつけます。


「わすれて‼ わすれて‼ あああああああああああああ‼」

 

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 

 だけど……何も忘れることができません。

 

 彼女の最後。あの地獄のような光景が何度も頭の中で蘇ります。


「意味がわかりません! なぜ、私ではなく彼女が‼ どうしてどうしてどうして‼」

 

 ドンッ‼

 

 ついに、私の頭が壊れる前に木が耐えきれずにへし折れてしまいました。

 呆然と佇む私の目からは一筋の涙が零れ落ちます。


「ああ……そうだ。帰りませんと。こんなに館から離れるなんて初めてです。それも供を付けずに。これではお母様とお兄様に怒られてしまいます。フフフ」

 

 私はふらふらと歩き出します。

 

 早く、早く帰らないとお母様に心配をかけてしまいます。


「お母様のことですから捜索を指示されているのかもしれませんね」

 

 楽しいことを考えながら歩きます。

 

 お母様に、お兄様に怒られる。

 なんと、嬉しいことでしょうか。


「お兄様も……もしかするとお父様も……案じてくれているはず」

 

 嬉しいことを妄想しながら歩きます。


 お父様は私のことを心配してくれているでしょうか。必死になってくれているでしょうか。

 実の父なのですから当然です。いくら無愛想でも……今回ばかりは。


「早く……早く……戻らないと……」

 

 皆が、皆が揃って出迎えてくれることを夢見ながら歩きます。


 目の奥から熱いものが込み上げて、鼻を啜ってしまいます。

 

 歩いて、森を出て、それでもまだ歩き続けます。

 

 道は分かりませんが直感で歩き続けます。これが帰巣本能なのでしょうか。間違っている気がしません。

 

 素足が真っ黒に染まっています。汚れなのか固まった血なのかもう分かりません。

 

 気にせず私は歩き続けます。

 

 日が昇り、日が沈み、景色が移ろいゆく。

 

 休むことなくゆっくりと歩みを続け、そして、ついに……。

 

 私は顔を上げます。

 

 目の前には大きな鉄柵門。馬車二台は同時に入ることができる広さがあります。

 

 柵の隙間から門以上の手入れされた庭が広がり、その先に壮大な館が見えました。

 

 間違い、ありません。


 私の、ヴィアモンテ家の館です。

 

 やっと、やっと帰ってこれました。

 

 自然と目が潤みます。だけど、これで終わりではありません。お母様、お母様に無事だと伝えないと……。


「……静か。誰も……探していない? ……なんで?」

 

 私は門を両手で掴む。そして、ガンガンと揺らし続けます。


「私です。開けて、開けてください‼」

「何ですか……見窄らしい。物乞いは受け付けていません」

 

 掃き掃除をしていたのでしょうか。

 

 箒を持った黒髪の侍女が煩わしそうに柵越しに立って、軽蔑の籠もった視線でそう言い放ってきました。


「物乞い? 違います。ここは私の……」

「早くお帰りなさいと言っているでしょう」

 

 そう言って侍女は箒の先端で私の身体を突いてきました。

 ですが、その箒は私の身体に触れた瞬間にひしゃげてしまいました。


「えっ……うそ」

「それは、こちらの、セリフ、です」

 

 ここは私の家なのに。なぜ、こんな仕打ちを受けないといけないのか。なぜ、攻撃されないといけないのか。

 

 そう私の中に怒りが込み上げてきます。初めてです。こんなに怒りを感じたのは。

 

 自然と手に力が入り、柵がぐにゃりと曲がり大きな隙間ができました。


「無礼者‼ ここがどこか分かっているのですか!?」

 

 あーうるさいです。うるさいうるさいうるさい‼

 

 私は自分の家に帰ってきただけですのに。


「お父様に会わせてください。お父様なら分かるはずです」

「は? 訳の分からぬことを……侵入者。侵入者です‼」

 

 侍女が大きく声を張り上げると館内が騒がしくなってきました。

 

 私はその侍女をどんと押し退けて館に向かって歩き始めます。庭のど真ん中を通り過ぎてそして館の扉に続く階段の前まで。

 

 すると、階段の上には赤髪の少し幼げな少女が立っていました。その後ろには侍女が二人控えています。


「誰……えっ、嘘……まさか生きていたの!? それにその見た目……別人じゃない‼」

 

 ……誰。


「あ……あ……」

 

 そのとき、混乱していた全ての記憶が戻ってきました。


「ああああああああああああああああああああ‼」

 

 この少女とその母親に虐められていた記憶が。

 そして、もうお兄様とお母様がいらっしゃらないことが。

 

 全てを壊してくる。私の全てを。


「うるさいわね。まぁ、いいわ。見違えるほど成長しているし……本当に成長して……コホン‼ そんな汚い格好じゃお父様も分かりませんわね。今度はきちんと送り届けてあげますわ‼」

 

 整った顔立ちが台無しになるような悪い笑みを浮かべた義姉のエミザは手をパチパチと叩きます。


 すると、控えていた侍女が私に近づいてきました。

 

 そうでした。もうここには私の味方は一人も……。

 

 そのとき、館の扉が開きます。


「何事だ……ん?」

 

 顔を見せたのは黒髪で口髭を携えた壮年の男性でした。

 

 ヴィアモンテ公爵ことデリント・ヴィアモンテ。……私のお父様です。

 

 その後ろには義母であるエリベローテが続いていました。

 

 彼女は私の姿を見ても目を細めただけでしたが、すぐに気が付いて顔が青ざめてしまいます。

 

 やっと……やっと助かる。この方たちの罪をお父様が知れば必ず裁いてくださるはず。

 

 私は大声を出そうとするも義母の方が先に声を張り上げました。


「一体何をしているのです‼ この狼藉者を早く追い出しなさい‼」

 

 既に近づいていた侍女が素早く動きました。私の手を抑えて義母の思惑を読み込み私の口をもう片方の手で押さえてきます。

 

 そして、そのまま力尽くでこの場から遠ざけようと門の方に押され始めました。


「んんん‼ んん‼」

 

 駄目です。声が遮られてしまいます。これが私に残された最後の機会です。この機会を逃すことはできません。

 

 伝えることさえできればあのお父様であっても分かってくれるはず。この人たちの所業を罰してくれるはず。

 

 私は最後の希望を持って全力で侍女を振り払いました。


「お父様‼ 私です‼ ロアです‼」

「……ロア? ま、まさか……」

 

 驚いたようにお父様は声を出し、目を細めてじっと見てきます。


「お父様‼ 私はこの方たちに殺されそうになり命からがら戻って参りました‼ 私だけではありません‼ 昔から仕えてくれた使用人の方々を、自分の思い通りにならない者たちを処罰し、その矛先はお兄様までに及んでいます‼」

 

 その後も私は私が知る限りの全てを告白しました。言い方を悪くすればぶちまけました。

 

 早口だったので正しく伝わっているか怪しかったのですがお父様なら、分かって、分かってくださるはずです。

 

 大きく息を吸い再び捲し立てようとしますがその声を途中で止めました。


「……もう良い」

 

 お父様が掌を前に伸ばし、私の声を制止したからです。


「はぁはぁ……」

 

 言い切った私は脱力し息が切れていました。だけど、安堵しました。

 

 お父様は分かってくれた。義母と義姉は顔が青ざめています。

 

 これで、ようやくこの家はまともな姿に……。


 ……しかし、現実は非情でした。


「……貴様は誰だ? ロアは死んだと聞かされた。我が妻と娘が虚偽を語るはずがない。よくもそのような身なりで亡き娘を騙ろうと考えたものだ」

「……は? い、いまなんと……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る