第35話 指と手
庭園の離れを自由に使わせてもらっていた俺だったが、食事は母屋で公爵一家といただくのが当たり前になっていた。
手間も少なく、美味しい食事にありつけるので、俺としてもこれはありがたい。
ただなによりも、決まった時間に姫さまに会えるのが楽しみだったのだ。
互いに会おうと思えばいつだって会うことはできる。
だが、年がら年中一緒というわけにはいかない。
用もないのにずっと姫さまと一緒にいたら、人々は不審に思ってしまうだろう。
噂はすぐに広まり、姫さまの立場を悪くしてしまう。
そういう事態は避けなければならないのだ。
その朝もブラックラ公爵はご機嫌だった。
新発売の髭剃り用の石鹸、劇場の新しい演目と新人女優、最近仕入れたワインの出来など、遊び人らしく話題には事欠かない。
オップマン侯爵への借金がなくなったので、ここのところは絶好調なのである。
借金がすべて帳消しになったわけじゃないんだけどね。
公爵にはもっと利率の低いところから借り換えたと姫さまは説明したらしい。
だが、領地を手放す必要がなくなったと知った公爵は、それだけで完全に浮かれてしまったようだ。
姫さまには全幅の信頼を寄せていて、「しっかりもののパレスに任せておけば安心だな」と、借金の額や詳しい利率などを追及することはなかった。
このように鷹揚すぎる性格が問題なのだろう。
ただ、気さくな人なので俺に対する気遣いもこまやかだ。
「カミヤ、必要なものは足りているか? なにかあればなんでも言いなさい」
「もう、じゅうぶんよくしてもらっています。毎日の食事も美味しくて、夢のような生活です」
「そうか、そうか。最近は粗食が多いが、週末にはご馳走を用意しよう。美味いワインも何本かそろえたいな」
ブラックラ公爵はニコニコしていたが、姫さまは軽くこめかみを押さえていた。
「お父さま、我が家にそんな余裕は……」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだよ。異世界から来たカミヤにいろいろと食べてもらいたいだけさ。なにせ、カミヤには恩がある」
俺のことが絡むと姫さまも強く言えず、そのまま公爵に流されてしまいそうな雰囲気である。
だが、俺は姫さまの負担になるのは嫌だった。
「ベステッカシチュー!」
思わず大きな声になった俺を公爵と姫さまが見ている。
「ほら、前に姫さまがおっしゃっていたじゃないですか。ベステッカのシチューはとても美味しいって」
「おお、そんなことを言ったことがあったな」
ベステッカは牛によく似た可食の魔物で、その肉は精肉店で売られている。
少々値段は張るようだが、公爵の考えているご馳走に比べればずっと安くてすむだろう。
「お話をうかがってから、ずっと食べてみたかったんですよね」
「ふむ、ベステッカシチューか。それもいいなあ」
ブラックラ公爵も乗り気のようだ。
「では、今週末はベステッカのシチューを振舞うとしよう。当家のシチューは特別だよ。楽しみにしていてくれたまえ」
「それはもう」
「さて、そろそろ準備をしなければならんな」
カップに残っていたカフェオレを飲み干して公爵は立ち上がった。
「お出かけですか?」
「宮廷に出仕だよ。今日はリーガン国の大使が見えるからな」
お気楽な公爵にも仕事はあるのだ。
おもに外国からの客をもてなすことらしいが、友好親善にかけては定評があるらしい。
といっても、外交上の重要な交渉をするのではなく、あくまでも社交の場を取り仕切り、出席者をくつろいだ気分にさせることが公爵には求められている。
その点、公爵ほどうってつけの人はいないのだろう。
これも適材適所ということか、そう思った。
朝食がすむと、姫さまから話があると言われた。
「先ほどは気を遣わせてしまったな」
「そんなことはありません。ベステッカシチューを食べてみたかったのは本当のことですから」
微笑みあいながら立つ俺たちの距離は50センチメートル。
姫さまの後ろにはドロナックさんがいる。
これ以上は近づけないのが暗黙のルールだ。
ふつふつと湧き上がる感情を押さえながら、俺たちは礼節を守った。
「カミヤ、ひとつ頼みごとをしていいだろうか?」
「なんなりと。遠慮なんてしないでください」
「うむ。レインラック伯爵夫人に力を貸してやってほしい」
「それは、どういった内容ですか?」
「失せもの探しなのだが……」
姫さまの説明によると、レインラック伯爵夫人という人が大切なペンダントを失くして困っているそうだ。
「伯爵夫人は亡き母の親友だった人だ。私にも非常に親切な方でな、幼いころからなにかと気にかけてくださるのだ」
「承知しました。姫さまにとって大切な方なら労力は惜しみません」
俺は地図画面を開き、[レインラック伯爵夫人のペンダント]で検索をかけた。
ところが……。
「う~ん、困りましたね。数がありすぎて、どれが探し物のペンダントかわかりません」
きっとたくさんのペンダントを夫人は持っているんだろう。
あちこちに散らばっていて、どれが目当てのペンダントなのかさっぱりである。
女中部屋にも一点あるけど、これは侍女かなにかがちょろまかしたものだろうか?
「悪いのだが、伯爵夫人のところまで行ってはくれないだろうか? メアリーおばさまは大事なペンダントを失くしてかなり気落ちしているらしいのだ」
「かまいませんが、いきなり行ってご迷惑になりませんかね?」
「先方には本日うかがうかもしれないと伝えてあるから大丈夫だ。本来ならわらわも一緒に行きたいところだが、今日は父と一緒に宮廷に行かねばならん」
「そういうことなら俺ひとりで行ってきましょう」
「すまんな。ではわらわも支度があるゆえ……」
去り際に姫さまの小指がほんの少し俺の手をかすめた。
もちろんわざとそうしたということを俺は知っている。
それがいまの姫さまにできる最大の愛情表現だということも。
「いってらっしゃい……」
愛しさと切なさを同時に感じながら、俺は姫さまの後姿を見送った。
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