黒いワンピースの女

蒼月想

第1話:黒いワンピースの女

私が働くカフェには、ひときわ目を引く常連がいる。

スタッフの間では「黒いワンピースの女」と呼ばれているが、彼女のことを語る者はいない。

正確には、語れないのだと思う。


彼女は、毎日決まった時間、決まった席に現れる。

注文はブレンドコーヒー。

無言で、ただそこに座り、何もせず、ただ佇んでいるだけ。


それだけなら、ただの不思議な客に過ぎない。

だが、彼女が現れると、カフェの空気が一変する。

誰かの笑い声が遠くに吸い込まれるように消え、BGMのピアノは次第に不安定になり、鍵盤を打つたびに音が歪み、窓から差し込む光さえも色を失う。

それは“静寂”ではなかった。

音が、ただ“死んでいる”のだ。


ある朝、いつものように自動ドアのチャイムが鳴る。

「おはようございます!」

元気よく挨拶した私は、ふと気づく。


ドアが開いた。

けれど、誰も入ってきたようには見えなかった。


しばらくして、気づくと、レジの前に彼女が立っていた。

目を逸らせなかった。

いや、目が、逸れなかった。


彼女の黒いワンピースは、まるで“空間の影”そのもののように見えた。

その輪郭の周りだけ、世界の光が滲んでいる。


「ブレンドコーヒーでよろしいでしょうか?」

返事はない。

だが、それでいい。


彼女は一度も注文の言葉を口にしたことがない。

声を、聞いたことがない。

それでも、私は彼女の注文を理解していた。

…理解させられているのかもしれない。


震える手でレジを打ちながら、私はその感覚に囚われていた。


その日の閉店後、モニターで監視カメラを確認する。

無意識に、彼女の姿をもう一度見たくなったのだ。


だが、彼女はどこにも映っていなかった。

音声も、映像も。

誰も入店していない。

レジの記録も、空白だった。


しかし、私は確信していた。

彼女は、確かに、今日もこのカフェに“いた”。


私は、このことを誰にも話さないことに決めた。

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