第2話:喪失

彼女が初めてカフェに現れてから、何日が経ったのかは、正確には覚えていない。

ただ、毎日決まった時刻に現れ、同じ席に座り、ブレンドコーヒーを飲む彼女を、私はずっと見てきた。

それは、たしかな日常だったはずなのに、ある日、すべてが変わった。


遅番で入ってきたバイトの佐藤くんが、レジ前の空気をぼんやり見つめながら、つぶやいた。

「なんか、妙に冷えてません?…あの席、誰かいましたっけ?」


その言葉に私は動揺した。

彼は、彼女を見ていなかった。

それどころか、彼女が毎日来ていることすら知らなかった。


「いつも来てる人だよ。黒いワンピースの…」


そう言いかけた瞬間、言葉が急に喉に引っかかり、口が動かなくなった。

まるで、言葉が喉の奥に張り付いているようだった。


「誰です?」

佐藤くんは首をかしげ、私を見た。


私は苦笑いを浮かべてごまかした。


翌週、店長にも同じようなことを聞いてみた。

「最近、決まった時間に来るお客さん、いないですか?」

「誰のこと? …ああ、新聞広げて座ってるあのおじいちゃん?」


違う。

彼女のことを、誰も覚えていない。

それどころか、彼女の存在を話そうとすると、言葉が抜け落ちていく。

まるで、口の中に小さな穴が開いていて、そこに語句がぽとりと落ちていくように。


そして、ある晩、私はとうとう夢を見た。


カフェの中、誰もいないはずの深夜。

照明が落ち、ガラス窓の外には、月も星もない、ただの黒い空が広がっている。

店内の奥に、ぽつんと明かりが灯っていた。


そこに、彼女がいた。

だが、その姿は昼間の彼女とは違っていた。

黒いワンピースが、床と一体化して流れているようだった。

彼女の身体はもはや影となり、椅子に座るのではなく、そこに“沈んで”いるように見えた。


彼女は顔を上げた。

マスクの下、肌がなく、白い骨のラインだけが一瞬見えた気がした。

そして彼女は、私に向かってこう言った——


「もうすぐ、あなたも」


その瞬間、私は目を覚ました。


汗に濡れたシーツ。

時計は午前11時を指していた。

開店から1時間が過ぎたはずの時間。

だが、私はまだベッドの中にいた。


慌てて店に向かうと、カフェはいつも通りに動いていた。

だが、私の存在を、誰も気に留めない。

挨拶をしても返されない。

佐藤くんに肩を叩いても、彼は驚いた様子で辺りを見回し、私を素通りしていった。


そのとき、ガラス越しに彼女の姿が見えた。

いつもの席。

私の“定位置”。


彼女は、こちらを見ていた。

その目は、こう語っていた。


「ようこそ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る