第10話 壊れた心に、そっと届いた笑い声
咲を失ったときは、陰で陽菜が見守ってくれていた。
だが今回は——誰もいない。
カイは、自分がまた立ち直れるとは思えなかった。
藁にもすがる思いで、心療内科を受診することにした。
病院の待合室で診察を待っていると、ふと見覚えのある顔が目に入った。
玲子。同じ会社に勤めているが、部署は違う。カイより3歳年上で、咲とも陽菜ともまったく違う、落ち着いた大人の女性だった。
「あれっ、玲子さん……何でここに?」
「あなたこそ?」
受付番号を見ると、玲子はカイの次だった。
「僕、先に終わると思うので……よかったら帰り、お茶でもどうですか?」
「いいですよ」
ふたりは診察を終えると、近くのカフェに入った。
玲子は、半年前に最愛の夫を交通事故で亡くしていた。
心のやり場を失い、心療内科に通っているのだという。
カイもまた、陽菜を失ったこと、自分の中の空虚さを語った。
お互いのことを話しているうちに、カイは突然こんなことを口にした。
「俺、この前、人生で一番怖い体験をしたんだよ」
「え、やめて。私、怖い話とか苦手なんだけど」
静止する玲子に構わず、カイは話し始めた。
「夜中の三時ごろだったと思う。ひとりで寝てたら、髪を誰かに撫でられてる感じがして目が覚めたんだ。で、手で触ったら、どう考えても“人間の手”なんだよ。ちゃんと温もりもあるし、指も動いてる。でも俺の寝てる場所、頭のすぐ上は5階のベランダの窓で、横は壁。人が入れるスペースなんてないんだ。ヤバい、俺、本物のお化けに出会っちゃった……」
「ねぇ、だから~怖い話は……」
カイは、構わず続けた。
「振り返って、正体見てやろうかとも思ったけど怖くて。目を開けて目の前にお化けの顔あっても怖いし、でも、そうだ、“無視しよう”って。
怖がってもらえなくて無視されるお化けって、ちょっとかわいそうじゃね?
どうせ朝にはいなくなるだろう。でもその時ふと気づいたんだ。“あれ? 俺の左手どこ行った?”って。……感覚がなかったんだよ。で、触って確認したらさ……そのお化けの手、俺の左手だったんだよ」
「は?」
「寝相が悪くて、しびれた左手が自分の頭の上に回ってただけだったんだよ……」
話を聞き終えた玲子は、ふいに吹き出し、そして——
「なによそれ! 怖い話じゃないじゃない! めちゃくちゃおかしい!」
大きな声で笑い出した。
手を叩き、お腹を抱えて、ついには涙までこぼす。
カイはきょとんとした表情のままだった。
「……いや、俺としては怖かったんだけど」
「怖くないってば! ほんと、おかしすぎる~!」
笑いが一度おさまっても、思い出してはまた笑う玲子。
ようやく落ち着いた頃、玲子はしみじみと言った。
「……あー、こんなに笑ったの、いつぶりかしら。半年は笑ってなかったと思う……半年分、笑わせてもらったわ」
ふたりはカフェを出た。
そのあとも、玲子はずっと微笑んでいた。
一方、カイは「怖い体験」を笑われてしまい、どこか釈然としないまま、玲子の笑顔を見つめていた——。
その後、カイと玲子は、頻繁に会うようになった。
玲子は、カイの話が真面目なのに、その中にクスッと笑えるポイントが散りばめられていることに気づく。自然と笑顔になっている自分に、ふと驚いた。
なぜ笑っているのか分からず、カイはいつもきょとんとしていた。——その顔を見るたび、玲子は自然と笑ってしまうのだった。
カイにとっても、咲や陽菜とは違う、落ち着いた空気で自分を包んでくれる玲子の存在に、少しずつ心を許していった。
玲子は、1か月後、心療内科の受診をした。
医師は、診察室に入る玲子を見て驚いた。明らかに顔色がいい、表情が豊かになっている、姿勢もいい。
「この1か月でどうかされましたか?」
「いや、別に」
と言ったものの、原因は、カイであることは明らかだった。
「玲子さん、その状態なら、もう通わなくて大丈夫です。薬も必要ありません」
玲子は、心の中で小さく笑った。
——どんな有名なカウンセラーや名医だって、カイには敵わないわね。
ふたりの関係は、いわゆる「恋愛」とは少し違っていた。
ただ、心の空白を埋めるように、互いを必要とし合っていた——その想いが静かに重なり、ふたりは結婚することとなった。
ある日、カイは咲の墓前に立ち、静かに語りかけた。
「俺は、今、玲子さんを笑顔にできてると思う。……これでいいんだよね」
あの日、病室で交わした——“誰かを笑顔にしてあげて”という約束を、自分なりに果たしたつもりだった。
けれど、墓石の向こう——咲は、まだ「終わりじゃない」と言いたげな表情をしていた。
カイには、その時、その意味がわからなかった。
時は、静かに、そして確かに流れていった。
——そして10年後。
あの日止まったままだった運命の歯車が、ようやく、静かに回り始める。
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