第4話 彼女のいない夜に天使が現れた
咲がカイの部屋に足を踏み入れると、すぐに“彼女の痕跡”に気づいた。
香り、並べられたマグカップ、ソファに置かれたブランケット――
そこかしこに漂う女性の存在感。
咲の脳裏に、あのショップでのひと幕がよみがえる。
彼女に言われた、「あなたにも早く彼ができるといいわね」という、
大人の女の余裕と、上から目線のひと言。
咲の中には、知らず知らずのうちに芽生えていた感情があった。
それは、静かな対抗心だった。
「この部屋って……彼女さんと同棲してるんですか?」
咲がふと問いかける。
カイはソファに荷物を置きながら答えた。
「いや、たまに来るだけ。彼女はもっといいマンションに住んでるよ」
そう言って笑ったが、その笑顔の奥には、どこか寂しげな色がにじんでいた。
咲は気持ちを切り替えるように、買ってきた食材をテキパキとキッチンに並べ、料理を始めた。
「なんでそんなに料理上手なの? 俺も何か手伝おうか?」
カイが声をかけると、咲はニッと笑って答えた。
「私、おばあちゃん子だったの。よく、おじいちゃんの酒のつまみ作らされてたの。
じゃあ……リンゴの皮むいて。できる〜?」
「俺、器用なんだぜ? 小学校のとき、図工はいつも“5”だったんだからな」
「図工? なにそれ、懐かし〜」
くすくすと笑い合うふたりの距離は、自然に、少しずつ近づいていく。
「ねぇ、彼女さんとも、こうやって並んで料理したことあるの?」
咲が声を落として聞くと、カイは手元を見ながら静かに答えた。
「え……一度もないな。彼女、あんまり料理得意じゃないから」
「そうなんだ……」
咲はうなずき、リンゴを手に取って皮をむくカイをじっと見つめた。
「……あ、皮むき上手〜」
「だろ?」
少し照れくさそうに笑うカイ。
自然とふたりの顔が近づき、そのまま、唇がふれた。
軽いキス。
咲は顔を赤らめながらも、ツンとした口調で言った。
「こらっ、刃物持ってる時によそ見しない!」
そう言ってふっと笑ったあと、小さな声でぽつりとつぶやいた。
「……後でね」
「え?」
「な〜んでもないよ〜」
――実は、カイには“後でね”の言葉がはっきり聞こえていた。
でもあえて聞き返したのは、その一言が、うれしすぎたから。
カイの胸は、小さく跳ねていた。
料理を食べ終えた頃、缶ビールがちょうど空になった。
咲はカイのグラスに、最後のひと口を自然な手つきで注ぐ。
「はい、どうぞ」
その仕草に、カイは少し驚いた。
高校生なのに、お酒の扱いが妙に板についている。
「え、なんでそんなに慣れてんの?」
咲は照れたように笑って言った。
「おじいちゃんの晩酌、昔からよくお手伝いしてたの。注ぐだけだけどね」
「そっか……なんか、すごく自然だったからさ」
咲のさりげない所作に、大人びた雰囲気と家庭的な温もりを感じ、カイはますます彼女に惹かれていくのを自覚していた。
「ねぇ、さっきの話……。下着、見てくれるって、本当?」
カイは一瞬、言葉を失った。
「え、いや、その……あの……」
言葉に詰まりながら視線をそらすと、咲が少しだけ不機嫌そうな声で重ねてくる。
「見たいの? 見たくないの?」
「……もちろん、見たいよ」
カイの答えに、咲はふっと表情をやわらげて、少しだけ甘えた声になる。
「変だって、言わない?」
「言わないよ」
「ちゃんと……褒めてくれる?」
「もちろん」
咲はニコッと笑って、照れくさそうに言った。
「じゃ……少し暗くして……」
カイはうなずき、リモコンで部屋の照明を落とす。
やわらかい光だけが部屋の空気を包む。
静かな空気のなか、咲が自分の白いニットの裾に、そっと手をかけた——
そのときだった。
カイのスマホが、不意に震える。
画面を見ると、りさからのLINE。
『今、無事着いたよ。そっちはもう夜だよね?
私がいない間に浮気なんてしてないよね〜?
じゃ、イタリアの写真送るからね〜!』
「……マジか! どこかで見てるのか?」
思わず部屋をキョロキョロ見回すカイ。
スマホを手に、静かに立ち上がり、リビングの外へと出た。
りさへの返信は、たった一言。
『了解。楽しんで。』
――最近は、返信すら後回しにしていたのに。
そのあまりの素早さに、りさはほんの小さな違和感を覚えた。
(なんでこんなに早いの?)
だが、イタリア旅行の興奮と景色の美しさで、
その疑問もすぐに心の奥へ押しやられた。
部屋に戻ったカイは、一瞬、息をのんだ。
咲が立っていた。
白いニットも、ロングスカートも脱ぎ、身に着けていたのは——
あの日、カイが選んだ、あの下着と“まったく同じもの”。
ふわりと光に浮かび上がるレース。
少女らしさと、大人びた魅力が交差する姿に、カイの視線が釘づけになる。
「カイさん、見て……」
咲の声は、小さく、震えるように優しかった。
「ねぇ、彼女さんと……どっちが可愛い?」
カイは、答える前に、自分の感情がすでに応えていることに気づいていた。
りさが同じ下着を着けていたときには、何も感じなかったのに——
咲の姿には、なぜか胸が熱くなった。
「……咲さんの方が断然可愛い。彼女とはくらべものにならないよ」
思っていたことを、正直に、ストレートに伝えた。
言いすぎたかもしれない。でも、それがカイの本音だった。
(……これ、りさに聞かれてたら、間違いなく殺されるな)
そう思いながらも、目の前の咲の姿がまぶしくて、視線をそらすことができなかった。
「もっと……近くで見ていい?」
カイが一歩、踏み出す。
その瞬間、咲がそっと口を開いた。
「……あのね、実は……さっきのキス……あれ、私のファーストキスだったの」
「え……」
咲は、はにかんだように微笑む。
「素敵なキスだった。ありがとう。……一生の思い出にするね」
そして、ふっと目を伏せて、もうひと言、ぽつりとこぼした。
「実はね、お姉ちゃんにこの下着欲しいって言ったら、『あんたには10年早い、似合わないわよ』って言われたの。……だからちょっと心配だったの」
カイの胸に、じんと熱いものがこみ上げてくる。
ふたりの距離は、もうあと数センチ。
今にも何かが始まりそうな、そのときだった。
咲のスマホが、突如として震える。
「……!」
ディスプレイには『ママ』の文字。
「どこいるの? 門限、もうとっくに過ぎてるわよ!」
「あっ……やばい。門限……完全に忘れてた……!」
門限にだけは厳しい家庭。
これまで一度も破ったことがなかったのに、
カイとのひとときは、それさえも忘れさせていた。
「ごめん、カイさん……すぐ帰らなきゃ……!」
あわてて服を着直し、カイに背を向けながら咲は部屋を出ていった。
カイはその場に座り込んだまま、ぽつりとため息をつく。
咲が残した温度。
香り。
声。
あの眩しい笑顔。
何より、咲のランジェリー姿が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。
すべてが、まだ部屋の中に残っているようで。
まるで——夢を見ていたかのようだった。
そして——一週間後、りさが帰国する。
カイは、りさの決断を知る由もなかった。
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