第八話『お咲の告白──禁じられた想い』
雨が降っていた。
御殿の簾の外、濡れた庭木が鈍い音を立てていた。
香の煙は湿気を含んで重く、部屋に長く留まっている。
帰蝶は、静かに香を焚いていた。
白檀と薄荷をほんの少し。清らかで、記憶を研ぎ澄ませる香。
その空間に、お咲が跪いた。
彼女の顔は少し火照り、しかしその目だけは、深く澄んでいた。
「姫様。お話を、させていただけますか」
「構わないわ。香もそう申しているように思える」
お咲は微かに笑った。
だがその笑みは、儚く震えていた。
「私は……以前の御台様に、お仕えしておりました」
「ええ、聞いているわ。けれど、あなたの口からは初めてね」
お咲はうなずき、両手を膝に重ねて言葉を継いだ。
「……あの方は、強いお人でした。誰よりも冷静で、そして美しかった」
「“美しい”という言葉が、どれほどの想いを含むのか──教えてくれる?」
お咲の目が揺れた。
それでも、彼女は逃げずに告げた。
「はい。私は……御台様を、慕っておりました。ただの女中としてではなく……一人の、女として」
香が、ふと揺れる。
「けれど、ある夜。あの方は……香を嗅いで、別人のようになりました。
私の名も、私との日々も……すべて、忘れてしまったかのように」
「香で、記憶が変えられた」
「ええ。あの夜以来、私は……何も言えなくなりました」
お咲の声は、かすれた。
その目元に、ひと筋の涙。
「けれど。ある日、姫様の香を嗅いだとき……
あの方のことを思い出したのです。胸が締めつけられるように」
帰蝶は、その言葉に微笑む。
「私の香が、目覚めさせたのね。あなたの眠っていた“恋”を」
「……はい。姫様の香は、私の記憶の扉を叩いたのです」
お咲は、畳に額をつけるように伏した。
「姫様。私は、罪深い者です。御台様を忘れられず……姫様にも心を寄せてしまう」
帰蝶は静かに立ち、お咲の手を取った。
「罪ではないわ。香は、過去を揺り起こす。でも……今のあなたの心もまた、本物」
お咲の震える指先に、帰蝶の香の匂いが染み込んでいく。
(彼女は犠牲者などではない。あの記憶の底から這い上がった、“香を知る女”)
「お咲、あなたは……私の香に共鳴した。そのことを、恥じる必要はない」
お咲は嗚咽をこらえながら、帰蝶の手に頬を寄せた。
その肌に触れた香が、再び彼女の“現在”を書き換えていくように──
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