第七話『香の奥に潜む刃──仮面たちの儀式』

 月が昇り、表御殿の灯が次第に消えてゆく。

 帰蝶は足音を殺し、黒染めの羽織を纏って密やかに廊下を渡っていた。

 お咲の口から洩れた“儀式”の噂。それを確かめるために。


 奥御殿裏手の納戸──ふだんは誰も立ち入らぬ倉の一室。

 だが、今宵は香の微かな煙が、天井の隙間から漏れていた。


(……あの香。沈香、龍脳、そして……桂皮。精神を高揚させる、選別の香)


 障子の隙間から覗き込んだその先で。

 数名の男たちが、白い仮面をつけて円陣を組んで座していた。

 焚かれた香を吸い込み、口々に何かを呟く。


「……あの方の目……あの夜の声……」


 帰蝶は息を呑む。

 それは“信長”の記憶の断片だった。


 仮面の者たちは、まるで一つの夢を見るかのように、信長との接触を語り合っていた。


「“兄上”が……あの夜、私の香を選んでくださった」

「……あの手の温かさ……私だけに向けられた眼差し……」


(これは……信長に恋慕を抱いた者たち……?)


 そのとき、一人の男の仮面がゆっくりと外された。

 柔らかな頬、濡れた睫毛。そして……泣きそうな声。


「兄上……」


 帰蝶の胸が脈打つ。


(……佐伯)


 仮面を外した佐伯の目は、過去の熱に溶けていた。

 香の煙に満たされた空間は、まるで“恋慕の牢獄”。


 だが、次の瞬間、佐伯の目がぴたりと帰蝶を捉えた。


「……覗き見とは、姫様らしい」


 彼の声は、涙の余韻を隠して凍てついていた。


「あなたには分からぬでしょう。兄上が、誰にも寄せなかった愛の重さなど」


「いいえ。むしろ、その愛を香で語らせているあなたの方が──滑稽よ」


 佐伯の目が鋭くなる。


「……私の香は、兄上が“認めた”唯一の調香だ。

 この香こそが、兄上の記憶そのもの」


 帰蝶は香炉に近づく。

 その香から立ち上る、甘く苦い気配。


「この香は、“恋慕の香”ね。憧れと忠誠を混ぜ、記憶を美化する毒」


 佐伯は頷いた。


「だからこそ、選別できる。兄上の足元にひれ伏す者と……

 兄上の隣に並ぶ資格を持つ者と」


 その言葉に、帰蝶の唇が僅かに吊り上がる。


「では、私が“隣”を奪えば、あなたはどうするのかしら?」


 佐伯は沈黙する。だがその眼差しは、明らかに嫉妬の色を帯びていた。


 香が、ゆっくりと部屋中に広がる。

 選ばれるために焚かれた香。

 誰かの記憶に縋り、誰かの心に残ろうとする香。


(それが、あなたの愛の形……)


 帰蝶は静かに背を向ける。


「ならば私も、自分の香を調えましょう。偽りの記憶ではなく、今の私で──」


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