第15話 深層

 僕はひっそりとベッドから出た。足音を立てないように歩き、ドアのところまで行く。ふと、振り返って眠っているヤナギさんを見てみた。

 彼女は安らかな寝顔をしていた。月明かりに照らされ、体の輪郭がおぼろげに見えた。

「ぐっすり眠っててくださいね……。それじゃ行ってきます」


 僕は部屋の外に出た。ポケットから鍵を取り出し、部屋のドアの錠をしっかり閉める。昼間鴉羽さんから部屋の鍵を貰っていたのだ。

「よし……これで万一の場合にもこの部屋に誰かが侵入する心配はない」

 あくまで念の為だけど、僕はその万が一の可能性のために後悔する気はなかった。僕はとりあえず彼女の安寧を第一に考えていた。そのつもりだった。


 僕は忍び足で廊下を歩き、階段を下りる。一階にたどり着き、玄関ホールのあたりまで来た。

「………」

 頭上を見上げてみる。巨大なシャンデリアが吊るされている。深夜だから灯りは点いていないけど、どこぞの宮殿で使われていてもおかしくないぐらいに豪奢なものだ。壁には立派な風景画。誰の描いたものかは知らないけど、おそらく19世紀のものだろうか。真田甲一郎氏は自分の持っている富を見せ惜しみする人ではないという事だ。

「さて……しばらく待つか」

 僕は床に敷かれた絨毯の上に座り込み、あぐらをかいた。ちょっとばかし待つ必要があるだろう。なに、せいぜい数時間だ。

 ──現在は午前一時を少し過ぎたぐらい。この屋敷の主人、真田氏は午後十一時くらいには寝室で眠りにつくし、お客さんたちも基本的に早寝早起きだ。メイドさんたちも十二時ぐらいに仕事を終わらせ、その後敷地内の離れに帰りベッドに入る。つまり現在この屋敷で起きている人間は僕一人、そのはずだった。

 ただし、それは僕の読みが外れていたらの話だ。



 玄関ホールで待機してから一時間ほどが経っただろうか。僕は密かな足音を聞いた。豹のような、密林を歩く虎のような、そんな静かな押し殺した足音だ。

 その足音は僕の数メートル手前で止まった。

 僕は──自分でも理由は分からずに、思わず微笑んだ。その人に話しかける。


「こんばんは、こんな夜中にどこに行くんですか?」


 その人は吐き捨てるように答えた。


「家に帰るんだよ」


 その人──森社さんは僕のことを憎々しげに見下ろした。



     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 僕は思い出した。かつてヤナギさんと語り合った時に、彼女が言っていたことを。

 ──そう、彼女が苦手な言葉は「希望」だった。人間を醜くするものは希望だと、あの人は信じているようだった。それはどこかの作家が言っていたことの受け売りのようだったけど、彼女にとってはそれなりの切実さを持った言い回しだったのだろう。



     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 僕は立ち上がった。薄暗闇の中で森社さんと対峙する。森社さんはリュックサックを一つ背負っただけの身軽な姿だった。

「……そうですか。じゃあ、帰る前に僕の質問に答えてくれませんか?」

「断る。君みたいな餓鬼は嫌いなんだ。はっきり言わなくて悪かったね」

 彼女はわざとのように攻撃的な言葉で僕を遠ざけようとする。 


「まあ、そう言わずに聞いてくださいよ──

──どうして白池さんを殺したんですか?」


 森社さんは表情を歪めた。夜叉、という言葉が思い浮かぶような顔に一瞬だけ見えた。もっともそれは僕の錯覚だったかも知れないけど。

「──なんて答えて欲しいんだ?私がやったんじゃない!ってか?それとも涙ながらに泣き崩れればいいのか?」

「どっちもやる必要はありませんよ。ただ、質問に答えてくれたら良いんです」

 彼女は大きく息を吐いた。心底くだらないとでも言うように、どことも分からない場所を見る。闇を透かそうとしているようだ。

「君さあ……。私が犯人だと思ってたのならなんであんな嘘をついたんだ?皆の前で」

「……どれのことでしょう」

「今日─違うな、昨日の朝に言ってただろう。白池殺しは外部犯の仕業だって。でも、あんた自身そんな事は思って無かったんじゃないか」

「ああ……それなら簡単です。外部犯だということにしておかなかったら、真田さんはいつまでたっても警察を呼ばなかったでしょうから」

 真田氏は警察を呼ぶまでに「三日間の猶予」が欲しいと言っていた。だが僕はそれを鵜呑みにするつもりはなかった。とどのつまり、真田氏は面子を気にしていたのだ。自分が呼んだ客の中に殺人犯が紛れ込んでいたのならとんでもない話になる─と。だから警察を呼ぶことを渋っていた。あのまま内側の人間同士で犯人探しをしていたら真田氏は永遠に警察を呼ばなかっただろう。僕はその状況を打開するために「外部犯説」をでっち上げる必要があった。

 森社さんは軽蔑したように薄笑いを浮かべる。

「はん──都合のためなら嘘だってつくし周りの人間を操作する事も厭わないってわけだ。見上げた人間性だな」

 僕は冷静に答える。

「僕の人間性については好きに言ってくれて構いませんよ。でも質問には答えてください。──あなたが白池さんを殺したんですか?そしてそうなら、動機は何だったんですか?」

 彼女は僕を睨む。──だが諦念に身を任せるように肩を落とした。そのまま背中をのけぞらせ、また体を戻す。まっすぐに僕を見る。


「ああ、そうだよ──わたしが、他でもないわたしが白池野子美を殺したんだ。あんたが正解だよ」


「──そうですか」

 念願の自白を手に入れたにも関わらず、僕の心は弾まなかった。どこか予定調和のような不可解な気分が胸を満たす。

「じゃあ、わたしの質問にも答えてくれよ。あんたはなんでわたしが犯人だと思ったんだ」

 僕は考え込む。ここで正直に答えるメリットはあるだろうか。でも、黙っておいてもあまり意味はない気がした。

「そうですね──理由はいくつもあります。まあ、基本的には消去法ですよ。まず物理的な、卑近な制約からです。あの鉄柵は高さ3メートルはありましたよね」

 実は電気が通っていなかった電気柵。この時点で原理的には屋敷の出入りが可能になっていた。だけど電気が通っていなかったとしても、あの柵をよじ登るのは大変だったろう。

「僕は、犯人は凶器と白池さんの腕を柵をよじ登って外に捨てに行ったと思ったんですよ。だって屋敷内からは全くその二つが見つからなかったんだから。色々調べたおかげであの柵には電気が通ってなかった事が分かったけど、それでも登るのは大変だろうと思った。老人の真田さんには無理だし、特に体力的に優れたところのなさそうな吉野さん、串野さん、祐禅寺さんも違うだろうと。大高さんでもきつそうですよね。使用人の三人はアリバイがあるので対象外。でもあなたは屋敷の来客の中では一番筋肉質な身体をしてたしアスレチックだった。実際山道で会った時に体を鍛えるのが趣味って言ってましたよね?」

 彼女は僕の解説を黙って聞いている。

「そして山道で会った、という事自体も疑いの間接要因になった。あなたは凶器と腕を捨てに行くルートをあの時確認しに行ってたんじゃないかと」

「まあ─そうかもしれないな。でもそれだけだと証拠としてはあまりに弱いぜ?」

 森社さんはこの状況を楽しむように言う。まるでただのゲームか何かのように。

「他にもまだ有ります。一つ一つの証拠は弱いですが、あなたにはあまりにもそれが多かった。──たとえば、あなたはまるで電気柵の事を恐れていませんでしたよね」

 死体発見の日、彼女は煙草の火を電気柵に押し付けて消していた。この屋敷の客はメイドさんたちに耳にタコが出来るほど「電気柵には近づかないでください」と言われ、感電死の危険まで警告されていたのだから、僕を含め誰も電気柵には近づこうとしていなかった。ところが彼女は触れるのを恐れるような様子も見せずそんな事をしていた。

「だから僕は後で気付いたんですよ。森社さんは柵に電気が通ってない事を知ってたんだなと。じゃあなぜそれを隠してたのか?って事です」

 僕は一息ついて森社さんの顔を見る。彼女はまだ面白そうににやにや笑いを浮かべていた。

「ネットで調べましたよ──現代芸術家であるあなたは電気を使った発光するオブジェなんかを複数作っていた事がありましたね。電気関係にあなたが詳しかったのはその事で分かりました」

 森社さんは笑った。なんてこと無いように答える。

「ま、そうだな。あの電気柵が漏電を起こして、その結果自動的に電気が遮断されてるのは漏電遮断器を見ればすぐ分かった」

 僕は自分の考えが裏付けられたことに満足し、続ける。

「そしてもう一つ。あなたこんな事言ってましたよね?『次に殺されるのは私かもしれない』とか」

「ああ、そんな事も言ったっけな」

 僕はうなずく。

「客観的に見て、これは凄く変なセリフです。だって根拠が何もないんだから。──でもこんな事を言う理由が一つありました。それは、自分が被害者になる可能性をちらつかせておけば、犯人とは見なされないだろう、という打算です。──それがあなたの狙いだったんですね」

 ところが森社さんは殺される事なく元気に昨日の朝食の席に現れていた。それが僕の彼女への疑いを強める一因となった。今思えば死体発見の日動揺していたのは殺されるかもしれない恐怖からではなく、単に犯人であることがバレるかもしれないプレッシャーからだったのだろう。あるいは良心の呵責とか。


「ま、こんなところがあなたが犯人だと疑った理由の大まかなものですよ。──次はあなたが僕の質問に答える番ですよ、現代芸術家の森社湧希さん」

 さっき言ったことを繰り返す。

「なんで白池さんを殺したんですか?」


 森社さんはため息をついた。こんなとこから説明しなきゃいけないのか、とでも言いたげだ。だけど、それでも話し始めた。

「──そうだな。まずは昔話から始めようか」


「私はさ、子供の頃から色んな国に連れ回されてたんだ。親の仕事の都合でね。色んなとこに行って色んなものを見たよ。──主に醜いものをね。例えば解決しようのない貧困だとか、血みどろの紛争だとか、生まれてすぐに死んでいく子供たちだとかね。そういうものばかりを見てきたから、物心ついた時にこう思ったんだ。私はこれらの出来事を世に訴える事が出来る芸術家になりたい──ってね」

 彼女は遠くを見るような目で語っている。

「努力の甲斐があって、私はプロの芸術家になれた。ある時、ニューヨークで個展を開いたんだよ。そこで私は色んなメッセージを込めた作品を出した。人間を救え、世を救え、子供たちを救え、ってね」

 潰えた夢を語る森社さんは、やはりと言うべきか夢心地に見えた。

「でも──何も変わらなかった。その次の日のニューヨークはとても寒い日で、何十人というホームレスの人たちが凍死したんだ。私は自分の作品を見た人たちは何か行動を起こすんじゃないかと思った。……でも彼らは何もしなかった。ただゆっくり死んでいく人たちの横を通り過ぎていったんだ」

 彼女は目を伏せる。

「そしてまた別のある時には、西アジアのある国で私の作品が展示されたこともある。私はまだ懲りずに同じメッセージを繰り返してたんだ。でもどうなったと思う?」

 僕は答えない。

「その作品は、それを展示していた美術館ごと吹っ飛ばされたよ。その国で戦争が始まったんだ。私の活動を後押ししてくれた人も大勢亡くなった」

 僕は答えなかった。

「……日本に戻ってきて私はいい加減気付いた。芸術で世の中が変わるなんて事は100パーセント無いって。99パーセントじゃなくて100パーセント。だから私は諦めて、市場ウケの良いゴミみたいな作品ばっか作るようになった。──そんな時に、あいつに出会ったんだよ」

「あいつというのは……」

「そう、白池だよ」


「白池の奴は、私の作品が凄く気に入ったって言ってきたんだよ。もはや何の意味もなくなった私のゴミみたいな作品をだよ?その時点で私は可笑しかったけどあいつはこんな提案までしてきた。『私にあなたの作品の紹介文を書かせてください』ってね。まああいつは作家だった訳だけど──。私は了承したよ。あいつがなんて書くのか見てみたかったんだ。そしたらなんて書いたと思う?『私は森社湧希の作品からは芸術の真の力を感じる。彼女は芸術には世界を本当の意味で革新する魔法のような力があると確信しているのだ』──とかなんとか、そんなことを書きくさりやがったんだよ」 

 僕は口を挟んだ。

「だから殺したと?まるで自分のことを分かってない良い加減な紹介文を書かれて腹が立ったから殺したって言うんですか?」

 彼女は首を振った。

「いいや、違うね。私は腹を立てたりなんかしなかった。私はね──羨ましかったんだよ。世界と人間をそんな風に理解できて信頼できる白池が。それは私にはもう永遠に出来ないことだからね。私は内心こう思った。ってね。彼女は芸術の無力さ、人間のあらゆる精神活動の無意味さなんて知る必要はないんだって心底思ったよ」

「そんな……そんなことのために殺したんですか?白池さんを。そんなことのために自分で人を殺したんですか?」

 彼女は黙った。少しの間考えるような沈黙。僕ら二人は身じろぎもせず向かい合ったままだ。

「いや……私の一番の動機はこれかもしれない」


。私はそれを示したかった。動機って言うなら、それかもしれないね」


 僕は押し黙ったままだ。今ここで聞いた言葉の全てが、僕の思考の領域を越えていた。僕は何を言えば良いのか分からなかったし、何を考えたら良いのかも分からなかった。

 でも僕は一つ思いついて彼女に尋ねる。これはこの事件についての基本的な問いだった。

「じゃあ……白池さんの両腕を切り取った意味はこれですか。あれは彼女自身の、あるいは芸術の無力さの象徴だったと」

 ミロのヴィーナスは腕が無いからこそ究極の美しさに到達したとよく言われる。それと同じように、白池野子美さんもその無力さゆえに森社湧希からは美しく見えたのだ。そう、破壊してしまいたくなるほどに。

 彼女は答えない。何も言わずに歩を進め、僕の横を通り過ぎようとする。

「……待ってくださいよ。ここは通せません」

 森社さんは馬鹿にしたように言う。

「通さない?君が?──無理だね、君には私を止められないよ」

 そう言うと彼女は僕の方を振り向かず歩いて行った。だが、玄関ドアを開ける時にこんな事を呟いた。

「……今私がここで言ったことは、君とは何の関係もない。私の地獄は私だけのものだよ。君はすぐに忘れれば良い。……っていうか、三日もすれば君は忘れてるよ」


 彼女はドアを開け、出ていった。それが森社さんの姿を見た最後だった。



     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 僕は一人残された。

「…………」

 彼女の地獄。別の彼女の地獄。あの人の地獄。そして僕自身の地獄。それら全てが今の僕にとっての世界のように思えた。

「この世ではお前は一つの肉体で苦しむ、あの世では無数の肉体の中で苦しむ。……だっけか」

 僕は昔読んだ異教の教典の言葉をそらんじていた。何の意味もなく。


「さてと……部屋に戻りますか」

 

 でも、ヤナギさんだけは僕にまだ残されていた。

 

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