第14話 対話/断片

 その日の午後、僕は談話室にいた。何をしていたのかというと、串野さんとチェスを指していたのである。僕の駒が黒で、串野さんが白。

 僕はこの手のボードゲームには多少自信があったが、相手のほうが強かった。開始十分もしないうちに僕はルークとビショップを一つずつ獲られてしまった。かなりの手練れである。うーん、こっからどうしよう。

「長考は五分までだよ」

 そう言って串野さんが急かしてくる。

「分かってますよ……僕は短期間で考えるの苦手なんです」

 その時鴉羽さんが談話室に入ってきた。飲み物を持ってきてくれたのだ。僕の前にオレンジジュースを、串野さんの前にアイスコーヒーを置いてくれる。彼女はチェス盤を一瞥し、僕の耳元で囁いた。

「このままだとあと九手以内にチェックメイトされてしまいますよ。この手でクイーンを犠牲にして相手のビショップを獲ることをおすすめします」

 おお、そうだったのか。光明が見えた気がする。

「こらこら、そこ、盤外からアドバイスなんてずるいんじゃないか?」

 串野さんが苦笑いしながら苦言を呈してきた。鴉羽さんはにこりと笑って一礼し、部屋を出ていった。

「……まったく、君は得な性格してるよな。何もしなくても周りの人が助けてくれるんだから」

 串野さんは呆れたようにそう言った。……そうなんだろうか。まあ思い当たる節が無いでもない。僕は日頃の人間関係、特にヤナギさんとの関係を思い浮かべてみた。

「まあ、そうなのかもしれませんね。でも僕だって助けられっぱなしって訳じゃないんですよ」

 そう言って僕は駒を進めた。


 チェス勝負は三戦やって僕が一勝、串野さんが二勝だった。まあ妥当なところだろう。僕はふと気になって聞いてみる。

「そういえば……吉野さんは大丈夫ですか?少しは元気になりましたか」

 彼女は事件のせいで精神的に憔悴している様子だった。昨日は人目もはばからず泣いてさえいた。

「ああ、吉野なら少しはマシになったよ…。君が事件の謎を一つ解いてくれたのが彼女の心を少し楽にしたのかもな…。その点については礼を言うよ、布施くん」

「そうですか…」

 どういたしまして。串野さんはそれから何か言いたげに、盤の上のポーンを指で突ついて倒した。

「そういえば、君とヤナギさんはなんで一緒にいるんだい?付き合ってる訳ではないんだろう?」

 難しい質問だ。だけどそれに対する答えは決まっていた。

「好きなんですよ。彼女と一緒にいるのが」

 串野さんは少し難しい顔をする。

「彼女が、ではないんだな。──まあいいさ、君みたいな奴は多く悩めば良い。その方が君たち自身のためにもなるだろうからね」


 談話室を出た僕はその足で屋敷の三階に向かう事にした。目指す場所は真田氏の書斎だ。僕は何となく彼と話したい気分だったのだ。緻密なレリーフが刻まれた手すりを手でなぞりながら上へ階段を上がっていく。……と、三階へ向かう階段の途中である女性と鉢合わせた。

「……君、これから真田さんのところへ行くの?」

 その女性は舞原さんだった。調理服ではなくドレスシャツ姿だったので一瞬誰か分からなかった。

「ええ。舞原さんもお話してたんですか?」

 舞原さんは品定めするように僕を眺めてから言う。

「そう。私、雇ってもらったお屋敷でこういう事が起きるのは初めてじゃないんだ。以前いた所でも似たような事があったから…。少し話しておきたくなってね」

「それは……だいぶとんでもない経験してらっしゃいますね」

 世の中にはとんでもなく濃い人生を生きてる人というのも居るのだな、と思った。舞原さんはそういう星の下に生まれついているようだった。……なるほど、これで彼女が終始冷静でいた理由も分かった。これは舞原さんにとっては目新しい経験でも無かった訳だ。僕は舞原さんに会釈をしてからさらに上に行く。


 三階にたどり着き、重厚な扉の前で止まる。二回ノックする。

「……入りたまえ」

 中から声がした。遠慮なく中に入る。

「失礼します」

 中に入ると、重厚なマホガニーのデスクが目についた。部屋の両横の壁に作られた書架には様々な本が陳列されている。

 真田氏はデスクの向こう側に座り、老眼鏡をかけて分厚い本を読んでいた。警察幹部との交渉とやらはもう終わったのだろうか。

「あの、警察の偉い人との交渉って……」

「ああ、もう済んだよ。電話を三本かけたらそれで終わった」

「……すごいですね。フィクサーみたいです」

 日本の裏側を見た気分だ。やはり世の中金と権力が第一なのだろうか。

「それほど大したものではないよ。三十年ほど前の真田家にはもっと大きな権威と権力があったのだがね、今ではこれが精一杯だ」

「へえ……。まあ僕みたいな庶民には分からないレベルのことですけど」

 僕はふと思い出した事が気になった。ヤナギさんによれば真田氏は三男だという。

「あの……真田さんの下のお名前は甲一郎、ですよね。失礼かもしれませんが、三男との事なのになぜその名前に?」

 彼は少し驚いたようにこちらを見る。

「簡単な事だよ。家の方針でね、男子の名には出来るだけ一の字を入れる事にしてるんだ」

 なるほど…。有り体に言えば一番の男になれ、というような意味が込められているのだろう。プライド意識が高い家なんだろう。

「まあ……私は長じてから投資なんていう虚業に手を出して金儲けをしたから、ずいぶんと一族の者には馬鹿にされたよ。旧家というのは変なところで意識が高くてね、投機で財を成したりするのは下品なこととでも思われたんだろうな」

「そうですか……そこら辺は複雑ですね」

 僕はふと、彼が僕を射るような目で見ている事に気付いた。

「……なんでしょう」

「君は本当にあの事件について分かっている事を全部話したのかね?」

 僕は思わず唾をごくりと飲み込む。

「え、ええ……。当たり前じゃないですか」

 彼は尚も僕の顔を見つめて続ける。

「君には何かまだ隠してる事があるんじゃないか?」


「まさか。僕は正直者なんですよ」


「……そうか。ならいい」

 真田氏は気が抜けたようにため息をついた。さて、僕も特に用事がある訳では無かったからこれ以上長居することもないだろう。お暇しよう。

「それじゃ、失礼します」

 僕は振り返らずに部屋を去った。


 それから晩餐の時間となった。今夜のメニューはフレンチだった。

「………」

 前菜、スープ、魚料理…と料理が順番に運ばれてくる間、僕はある人物の事を観察していた。その人物は僕の視線の事など気にも止めないように黙々と食事を摂っている。

 一方僕の隣ではヤナギさんがうまうまと料理を食べていた。

「このブイヤベースめっちゃ美味しいよー。美味しすぎて泣きそう」

 のん気にそんなことを言っている。

「良かったですね」

「ぼーっとしてないで君も食べなよ。いらないの?」

「……いえ、いただきます」


 食事を終え、僕らは部屋に戻ってきた。なんとなく二人で話し込む。内容はどうでも良いようなことばかりだ。例えば将来飼うなら犬と猫どちらがいいか、三億円の宝くじが当たったら何をするか、地球最後の日にやりたい事は何か、とか。

 一通り話し疲れて遊び疲れ、僕らは床につくことにした。電気を消す。

「……おやすみなさい」

「おやすみ」

 彼女は暗闇の中で一瞬だけ僕の目を見つめ、その後向こう側を向いてすぐに眠りに落ちた。


    

 午前一時ごろ。


 僕は闇の中で起き上がった。

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