第7話 蜘蛛と蟻

 七月十六日、午前七時。


 ──僕は小鳥たちの鳴き声で目を覚ました。慣れないふわふわの枕に違和感を感じながら、自分の意識を少しずつ現実に合わせていく。─そうだ、ここは真田甲一郎氏のお屋敷だ。昨日から僕はこの屋敷に居るのだった。

 隣のベッドを見てみると、案の定ヤナギさんが寝ていた。すやあ、と安らかな寝顔をしている。あんまり女性の寝顔をじろじろ見るものではないだろう。僕は視線を外した。

「さてと──起きますか」


 顔を洗い、服を着替えるとヤナギさんも起きてきた。なんだかぼんやりとした表情をしている。

「おはようっす…。よく眠れましたか?」

 黙ってこくりとうなずくヤナギさん。朝はあんまりテンション高くないタイプのようだ。


 ヤナギさんも身支度を整えると、二人一緒に朝食を食べに食堂の方へ行く。食堂につくと、ゲストの皆さんもやはり席についてすでに朝ごはんを食べ始めていた。トーストにベーコンエッグにチリビーンズ、グレープフルーツというメニュー。

 朝ごはんは美味しかった。食べ終わってから僕らは部屋に戻る。これから何をしよう。

 その時タイミングよく鴉羽さんが部屋に入ってきた。

「失礼します…。お部屋の掃除をさせていただきます」

 掃除機と箒を携えている。ちょうどいい、今日一日何をしたらいいか鴉羽さんに聞いてみよう(指示待ち人間みたいだけど)。

「あ、鴉羽さん、ちょうど良かった。あのー、今日ってなんか予定ありますかね?僕はこのお屋敷で何をしていたらいいんでしょう」

「このお屋敷にいらしたお客様は基本的に自由に行動してくださって結構です。ルールは三つだけで、朝、昼、晩のお食事は皆さんでそろって行なわれること、できる限りお客様同士で交流していただくこと、時々真田様ともお話してご自身の専門分野について意見の交換や議論をしていただくことです」

「そうですか…。よく分かりました。ただ、僕はヤナギさんの付き添いですから専門分野は別にないですけど。それじゃとりあえず散歩でもしてきます」

 僕はそう言うと部屋を出ていった。鴉羽さんがぺこりと一礼するのが見えた。


 屋敷の扉を開け、外に出る。朝の光が眩しく、蝉の大合唱がうるさい。典型的な夏の朝って感じだった。

 庭に足を踏み出してあたりを歩いてみる。…と、芝生の上に並べられた椅子に座っている人がいた。蕨手吉野さんだ。そばに立っている人は串野さん。蕨手さんはなにかハードカバーの本を読んでいた。

「…どうも。今日はいい天気ですね」

 僕の方から声をかけると、蕨手さんは顔を上げた。

「おはよう、布施顕人くん。散歩に来たの?」

 栗色の髪をふるわせ、屈託のない笑顔を浮かべて言う。─やはり純真な少女のような印象を受ける。歳は僕より上のはずだけど。

「ええ。─蕨手さんは何をしてるんですか?」

「吉野でいいよ、せっかく知り合えたんだからさ」

 またしても屈託のない笑みを浮かべて言う。…日ごろヤナギさんみたいな人と一緒にいるのでこのようなタイプの人はとても新鮮に見える。けしてヤナギさんを悪く言うわけではないが。

「ちょっと詩集を読んでたんだよ。インスピレーションのためにね」

 僕の質問に答える吉野さん。そう、彼女は詩人なのだ。

「おや、君の彼女は一緒じゃないのかい?」

 僕ら二人の会話を聞いていた串野さんが口を開いた。やれやれ、まだ誤解されてるのか。

「だから僕とヤナギさんはそう言うんじゃないんですって…。ヤナギさんなら部屋で執筆作業してるみたいです」

 「ふーん。でも君ら、ただの友達っていうには妙に親密っていうか、何かあるように見えるんだけどな」

 にやにやしながらそんな事を言う串野さん。そんな言い方をされても困る。

「何かって……なんですか?」

「うん、精神的なつながりって言うのかな?なんか君ら二人を見てると思うんだよ。なんというか…っていうかさ」

「……」

 一瞬言葉に詰まってしまう。似てないのに似ている、まるで違うのによく似ている。僕と彼女の関係を表すのにそれはある意味当たってるのかもしれない。でも──。

「……だとしてもそれだけでくっつけるという事にはなりませんね。人生ってそんなに単純なもんですか?」

 僕はあえて反論を試みた。串野さんはさらりと言葉を返す。

「うん、もしかしたらそうかもしれないぜ?君が思うより人生はずっと単純かもしれない。──前も言ったけど俺はヤナギさんとは大学が同じで同じミステリ研に居たからさ、彼女の性格の事はよく知ってるんだ。案外君が一歩を踏み出したら彼女も受け入れてくれるかもしれないぜ?」

「……やっぱり違いますね。串野さんは多分僕のことを誤解してます」

 僕はそう言うと、少しの間だけ押し黙ってしまった。


「あのさ、一つ質問してもいいかな?詩のアイデアのことなんだけど、君の意見を聞いてみたいんだ」

 黙ってしまった僕を見かねたのか、吉野さんが声を掛けてくれた。その優しさに救われる。

「良いですよ、なんですか?」

「うん、わたし、今度『死後の世界』をテーマにした詩を書こうと思ってるんだ。布施くんは人が死んだらどこに行くと思うかな?」

 僕は少しだけ考える。ここは正直に答えてみよう。

「どこにも行きませんよ。死んだ人間は移動したんじゃなくて、消えたんです」

 あっさりそう言ってしまう。僕には詩情がないのかもしれない。

「そっかー、布施くんはそう思うんだね。でもね、私はそうじゃない可能性も考えてるんだ。たとえば死んだ人の霊は水の中に行って、春になると地上に戻ってきてそれが草木の花を咲かせる──とかね」

「…なかなかロマンチックな考えですね、それは」

「えへへ、ありがと」

 にこっと笑う吉野さん。大変に可愛らしい。

「じゃ、僕は行きますね。もうちょっとそこら辺を散歩して探索してきます。敷地の外も歩いてみたいし」

 僕は軽く手を振って立ち去った。振り返ると、吉野さんが笑顔で手を振ってくれていた。


 庭を歩いて、昨日通った門のあたりに行ってみる。…と、また見覚えのある人がいた。未来学者の祐禅寺雷花さんだ。彼女は何かを考えるように斜め上を見上げて立っていた。

「ども」

 声を掛けると一瞬驚いたようだったが、すぐに僕が誰か思い出したようだ。

「ああ、おはようございます。布施さん」

 挨拶をして銀縁眼鏡をすちゃりと直す祐禅寺さん。なかなか様になっていた。

「何してるんですか?こんなところで」

「考え事をしていました。全く自慢する訳ではありませんが、私には考える事が多いんです」

 いかにも頭の良さそうな発言。さすがは高名な未来学者だ。

「そうですか。それは未来の事について?」

「…それもありますが、もっと広い事象についても考えていました。未来について考えたり予想するには結局世界全体についての考察が必要ですから」

「へえ……。そうだ、祐禅寺さん。僕の質問に一つ答えてもらえませんか?」

 僕は昨日ヤナギさんが彼女にあれこれ質問してたのを思い出してそう言った。

「分かりました。出来る範囲でお答えしましょう」

 親切にもそう言ってくれる祐禅寺さん。

「ありがとうございます。……そうですね、今日の議題は『悪』について、にしましょうか」

「悪、ですか?」

 首をかしげる。質問内容が唐突に思えたらしい。

「ええ。例えばこんな言い方があるじゃないですか。『正義は勝つ』みたいな」

「ええ、そうですね」

「でもこれは本当なんでしょうかね?悪が勝ち続ける場合っていうのは原理的にあり得ないものなんでしょうか」

 祐禅寺さんは難しい顔をして考え込む。これはほぼ哲学の領域であって、祐禅寺さんの専門分野ではないだろうに真剣に考えてくれている。

「…一般的に考えれば『悪』よりも『正義』の方が多くの人からの継続的な支持を得られるはずですよね。そういう意味では『悪の方が早く滅びる』または『正義は滅びない』とは言えるんじゃないですか?」

 祐禅寺さんはそう答えた。ある種模範的な解答だ。僕はそれを聞いて、さらに自分の考えを話してみる。 

「そうですね。では仮定の話をしてみましょうか。──例えばある巨大な『悪』があったとして、それが1000年間続いたとします。この場合は人間の一生のスパンよりはるかに長い期間ですね。1000年は永遠にはほど遠いですけど、その1000年間に生きていた人は『正義は勝つ』といった信念を信じる事が出来るでしょうかね?例えその悪が1001年目に滅びるとしても」

 祐禅寺さんはまたしても考え込んだ。その質問に対する答えを探しているようだ。でもすぐに顔を上げ、僕の目をまっすぐに覗き込んできた。

「そうですね。──その場合は人は『正義』の概念を保ち続けるのは難しいかもしれません。でもだからこそ人間は究極の正義として『神』を設定するのではないですか?」

「──神はいますかね?」

「さあ、私は知りません」


「……ありがとうございます。突飛な質問に真摯に答えてくださって」

 僕は礼を言う。一人の時間を邪魔されて迷惑だったかもしれないのに、祐禅寺さんは僕の質問に丁寧に答えてくれた。その一点だけでも感謝するべきだろう。

「それじゃ僕はもう行きますね。散歩の途中だったので」

「門の外に出るつもりですか?」

「ええ、森を散歩したいので」

「そうですか。お気をつけて」


 僕は屋敷のゲートに近づき、手で開けてみようとした。来た時に見たように、この屋敷は周りをぐるりと鉄柵に囲まれており、その一部が門になっている。

「危ない!!」

 うわっびっくりした。振り返ってみる。と、メイドの女性がこちらに向かって走って来ていた。ただし鴉羽さんではなく、もう一人のメイド、濡影さんだった。彼女は僕の近くまで来ると呆れたように言った。

「あの、来た時に言われなかったんですか?この柵には野生動物よけの高圧電流が流れてるからお客様は触れちゃだめだって」

「あ…そういえば鴉羽さんがそんなこと言ってましたね」

 すっかり忘れてた。僕の物覚えの悪さには定評があるのだ。

「でも僕は鉄柵じゃなくてゲートに触れようとしたんですけど」

「……ゲートも上の方の鉄線には電流が走ってます。門を開けたいなら私たちに言いつけてください」

 呆れたように言うと、濡影さんはパスコードを押して鍵を開けることでゲートを開いてくれた。

「ありがとうございます。ちょっと屋敷の外の森を散歩したかったので」

「ええ、お散歩ならあまり遠くに行かれない限りは問題ありません」

 僕はゲートの外に出ようとした。ふと疑問に思ったことを聞いてみる。

「あの、鉄柵には高圧電流が走ってるとのことですけど、それってどれぐらい強い電流なんですか?」

 濡影さんはさらっと答える。

「電圧は200ボルトです」

「……強いんですか?それ」

「人間だと、心臓の弱い方は35ボルトの電流に触れても亡くなってしまうと言います」

 ……おお。不用意に鉄柵に触れなくてよかった。割と危ないとこだったのかも。僕は濡影さんに礼を言うとゲートの外の山道を歩き出した。



 一通り森の中の道を散歩し、僕は屋敷に戻ろうとした。

「やっぱり平地に比べるとだいぶ涼しいな…さすが避暑地」

 そんなことを呟いてると、山道に誰かが立ってるのを発見した。

「あ…ども、森社さん」

 現代芸術家の森社湧希さんだった。彼女は今日はタンクトップ一枚の姿だった。ランニングでもしてたのだろうか。

「お…布施くん、だったよな。柳本さんの付き添いの」

 ぶっきらぼうに答える森社さん。タンクトップの上から見ると、彼女はだいぶ引き締まった筋肉質な体つきをしていた。何かスポーツでもやってるようだ。

「ええ、ちょっと散歩してましてね。森社さんもお散歩ですか?」

「まあ、散歩兼ジョギングってとこかな…あの屋敷にずっと居ると体がなまっちゃうからね」

「そうですねぇ。…森社さんって何かスポーツでもやってるんですか?結構、その、スポーティーな雰囲気してるというか、筋肉ついてらっしゃいますけど」

「ああ、筋トレが趣味なんだよ、私は。それに彫刻彫ったりするのって割と筋肉使うからね」

「へえ〜。さすが芸術家ですね」

 森社さんはもう一走りするという事だったので、僕はひとりで屋敷に戻った。



 部屋に帰る。ヤナギさんの姿は見えなかった。どこに行ったんだろう。

「談話室の方かな…?」

 一回に降りて談話室に行ってみると、案の定そこにヤナギさんはいた。彼女は純文学作家の白池さんと話し込んでいた。

「……楽しそうですね、ヤナギさん」

 声を掛ける。

「なんだ、布施くんか。今ね、この白池さんと創作論について色々語り合ってたんだよ。そうですよね?」

「え、ええ……。私とヤナギさんは書いてる小説のジャンルは違いますけど」

 白池さんは相変わらずおどおどした雰囲気だ。「間違ったコミュ強」のヤナギさんと真正コミュ障っぽい(失礼)白池さんの組み合わせとはなかなか面白い。

「へー。例えばどんなことを話してたんですか?」

 白池さんに聞いてみる。彼女は恥ずかしそうに目を逸らし、

「そ、そうですね……。例えば物語には明喩と暗喩の両方が必要だ……とかそんな事について話してました…」

 と言った。ふむ、明喩と暗喩ねえ…。明喩と暗喩…。

「……まあ僕は物書きじゃないのでそこら辺は良くわかんないですけど。創作論って難しいですね」

「あっ…。そ、そうですよね」

 萎縮してしまった様子の白池さん。しまった、少し感じの悪い言い方だったかもしれない。謝ろうと思ったら、白池さんは予想外の質問をしてきた。

「あっ、あの……。ヤナギさんと布施さんってどうやって知り合ったんですか…?私、少し気になって…」

「へ?」  

 急にそんな事を聞かれるとは。隠すような事ではないけど少し説明しづらいな……。

「布施くんはね、私のことを助けてくれたんだよ。そうだよね?」

 僕ではなくヤナギさんが答えた。どこか自慢げににやにやと笑っている。

「ええ、まあ…。本当に最初の馴れ初めはそんな感じですけど。でもまあその後で僕もヤナギさんに色々助けてもらったのでそこら辺はおあいこですね」

「そ、そうなんですね……。お二人とも仲良さそうで何よりです……」

 そんな事を言う白池さん。この人は何が聞きたかったんだろう?

 ……あ、そうか。この人も串野さん同様に僕とヤナギさんが出来ていると勘違いしているのか。……まあいいや。もはや訂正するのも面倒くさいし、そこら辺はもう放っておこう。



 その後は三人で色々と話し、昼食となった。昼食後も僕は屋敷に来てるゲストの方々とお話をしたり庭を散策したりで時間を潰した。屋敷の主人である真田さんはどういう訳か今日はあまり見かけなかった。そんなこんなであっという間に七月十六日の日は過ぎていき、また晩餐を終えた僕らは部屋に帰ってきた。


「………」

 不思議とヤナギさんは黙りこくっている。どうしたんだろう。

「なんか深刻そうな顔してますね、何かあったんですか?」

「……そうだね。一つ、あるかな」

「あるって何がですか」 

「なんというか……そう、予感、だね」

「予感?」

「うん。何か起こりそうな気がする」

「いや……その何かが何なのかを教えてくださいよ」

 ヤナギさんは時々極めて曖昧な事を言い出すことがある。その真意を探り出す事が僕に要求される場面は往々にしてあった。

「そうだね……。私にとってもこれはただの『予感』でしかないんだ。でも近い内に何かが起きるかもしれない。その時には──」

 その時には?

「──君が守ってくれると、嬉しいな」



 

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