2. みかんと黄桃
「お邪魔、します……」
「水野さん、来てくれたんだ」
木曜日の昼休み、私はまた家庭科室に来てしまった。町田くんから少し離れた椅子にそろそろと座り、ほんのり甘い匂いを堪能する。まだ誰もパンケーキを焼いてはいないけれど、大きなボウルからはバニラのような匂いがする。
いつもお昼は食欲が湧かないのに足が向いたのは、「また食べに来てよ」と誘われたのがうれしかったから。
「今日は、弁当は?」
「えっと……、食べてない」
「じゃああいつらの分も食べてやってよ。うまくできたら、だけど」
「お腹に入りそうだったら、いただきます」
そう言うと、町田くんが私の前にフルーツ缶を四つと苺ジャムを並べてくれた。
「ごめん、缶詰しかないんだけど、何が好き?」
「十分豪華だよ。私はみかんと黄桃が好き」
真っ白な調理台にフルーツ缶とジャム。その向こうには、銀色のボウルと白いゴムベラ。こういうゆるい風景は好きだな、なんて考える。同好会に入ったわけでもないのに。
「みかんと黄桃、人気ランキングトップツーだな。あいつらに取られないようにしないと」
「あ……、その、残り物でいいから」
「そんなのダメだよ、せっかく来てくれたんだから」
町田くんの言い方は何だか自分が優先されているようで落ち着かず、俯いてしまう。でも心がくすぐったいような、むず痒いような感覚がちょっと楽しい。こんな気分になるのは初めてかもしれない。
「町田ぁ、そっちの缶詰よこせよ」
「おー、パイナップルとミックスのならいいぞ」
「みかんは?」
「売り切れ」
ははは、と笑ってから町田くんは缶詰二つを手に取り、別の調理台へと歩いていった。
お弁当のことをつっこまれなくてよかった。兄さん二人のお弁当はお母さんが作っているけれど、私の分は作ってもらえない。「量が少ないお弁当って作るの面倒なのよね」と言われ、毎週お金をもらうだけ。コンビニや学校の売店で買っていたものはだんだんおいしいと感じなくなり、二学期に入ってから、昼休みに何も食べなくなった。
私はいつも後回しにされる。お弁当じゃなくても、親じゃなくても、何についても、誰にでも。それでいいと思っていた。大人しくしていれば親から小言を投げられることもない。誰にも反論しないで目立たなければクラスでいじめられることもない。ちょっとだけ悲しくなることはあるけれど、もう慣れた。
――ただ、今は――
目の前のみかんと黄桃の缶詰を眺める。私のために残された、二つ。そうだ、食べるなら、と思い出し、ヘアゴムで髪をくくる。
「……ふふっ」
『みかん シロップ漬け』と書かれたパッケージを指で触り、つるりとした表面の感覚を味わう。そんなことをしていると、別の調理台に「火加減気を付けろよ、ホットケーキは焦げやすいんだ」と声をかけながら町田くんが戻ってきた。
「みんなパンケーキじゃなくてホットケーキって言うんだね」
「ああ、ミヤ先が『パンケーキなんて邪道! ホットケーキと言え!』ってうるさいから。俺もホットケーキって言う方が好きなんだけどね。熱々って感じで」
「そっか、ホットケーキだと確かに熱々……あ、そういえば、おじいちゃんもおばあちゃんもホットケーキって言ってたかも……」
もうだいぶ薄くなっている、でも、大事な記憶。おじいちゃんとおばあちゃんは、遊びに行くといつでも私をかわいがってくれた。甘いものが好きな私のためにパンケーキ……ううん、ホットケーキを焼いてくれた。あんこを挟んで食べるというのは、おばあちゃんが入院してしまって叶わなかったけれど。
「……よかった、もう大丈夫かな」
「ん?」
「何でもない。じゃ、焼きはじめるよ」
「あっ、て、手伝うよ。もらうだけなんて悪いもん」
「本当に? そしたらフルーツ切っておいてくれるかな」
「うん、包丁は使えるから、任せて」
重い気持ちだった昼休みが、こんなに楽しくなるなんて。袖をまくって手を洗う。フルーツを乗せるお皿も用意して、準備は万端だ。
「フルーツもジャムも好きだけど、あんこ挟むのもいいかも」
「あー、いいね、それ。あいつらにも言っておこう。今日は缶詰とジャムで我慢してよ」
「我慢なんて。贅沢過ぎるくらいなのに」
町田くんは、フライパンにじゅうっと音をさせてから、こちらに笑顔を向けた。
上手に焼けたパンケーキとみかんと黄桃、そして苺ジャムの組み合わせは最高で、町田くんと「おいしいね」と笑い合いながら完食してしまった。他の男子もにこにこしながら「俺も水野さんに食べてもらうためにがんばるよ」と言ってくれる。今日は……、今日も、焦がしてしまったみたいだけれど。
「おまえら、次は俺の授業だからな。腹いっぱいだろうが寝るんじゃねえぞ」
宮良先生の言葉に「はーい」と答え、私たちは家庭科室から教室へ向かう。その途中でスマホのチャットアプリのIDを町田くんと交換できたのも、とても、とてもうれしかった。
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