第5話 遺されたもの、託されたもの
絵本を読んだ夜から、俺とルナの間の空気は、ほんの少しだけれど、和らいだ気がする。
相変わらず会話はぎこちないし、俺の父親レベルが一気に上がったわけでもない。
それでも、ルナが時折見せる、警戒心の解けたような表情や、ふとした瞬間の小さな笑顔は、俺にとって何よりの報酬だった。
もっとルナのことを知りたい。
もっと、この子の心に近づきたい。
そんな思いが、日増しに強くなっていた。
しかし、具体的にどうすればいいのか、その方法が分からない。
相変わらず、俺は手探りで進むしかないのだ。
ある晴れた日の午後、俺は家の中を少し整理することにした。
一つは、単純に時間を持て余していたから。
もう一つは、もしかしたら、この家のどこかに、元のカインやエライザが遺した「何か」――例えば、育児マニュアル的なものとか、せめて生活のヒントになるようなもの――が隠されているんじゃないか、という淡い期待があったからだ。
リビングやキッチンは一通り見た。
残るは、俺が寝起きしている寝室か……。
寝室の隅には、大きな木製のクローゼットがある。
中には、元のカインのものらしき、飾り気のない丈夫そうな服が数着と、狩猟に使うらしい道具がいくつか仕舞われているだけだと思っていた。
念のため、クローゼットの奥、棚の上に積まれた埃っぽい毛布などをどけてみる。
すると、その下に、小さな木箱が隠されるように置かれているのを見つけた。
何の変哲もない、古びた木箱。
しかし、そこだけ空気が違うような、触れてはいけないような、そんな気配を感じた。
(これは……)
おそらく、元のカインか、あるいはエライザが、大切に仕舞っていたものだろう。
他人の――いや、もう他人ではないのかもしれないが――プライベートな箱を勝手に開けることに、強い抵抗を感じる。
だが、同時に、強い好奇心も湧き上がってくる。
この箱の中に、俺が求めている「何か」があるかもしれない。
ルナを理解するための、ヒントが。
しばらく葛藤した後、俺は意を決して、そっと木箱に手を伸ばした。
蓋は、鍵がかかっているわけでもなく、あっさりと開いた。
箱の中に収められていたのは、女性ものの、ささやかな品々だった。
色褪せたリボン。
ハーブか何かの、甘く優しい香りが微かに漂う小さな布袋。
丸くてすべすべした、川辺で拾ったような石。
そして、一冊の、使い込まれた革表紙のノート。
(……エライザの、持ち物か……)
胸が、締め付けられるような気持ちになった。
見ず知らずの――しかし、この世界では俺の「妻」であったはずの女性の、個人的な品々。
ノートを手に取る指が、微かに震える。
覗き見をするような罪悪感を感じながらも、俺はゆっくりとその表紙を開いた。
インクで書かれた、丁寧で、丸みを帯びた女性らしい文字が目に飛び込んできた。
それは、整然とした日記というよりは、日々の出来事や思いつき、ルナの成長の記録、簡単な料理のレシピなどが、順不同に書き留められた、雑記帳のようなものだった。
『ルナが初めて笑った。天使みたい』
『カインが、ルナのために木馬を作ってくれた。口下手だけど、本当に優しい人』
『今日、ルナが好きなベリーでジャムを作った。カインも「美味い」と言ってくれた。嬉しい』
『ルナが、カマドの火を怖がる。何か良い方法はないかしら』
『得意料理:ふわふわ卵。コツは、弱火でゆっくり混ぜること』
ページをめくる手が、止まらなくなる。
そこには、俺の知らない、この家で確かに営まれていた、ささやかで温かい家族の日常が息づいていた。
エライザという女性の、ルナへの深い愛情。
元のカインへの、穏やかで優しい眼差し。
彼女の人となりが、その文字から滲み出てくるようだった。
元のカインは、やはり口数は少ないが、不器用な優しさを持つ職人気質の男だったらしい。
俺は、まるで他人の家庭を覗き見しているような、不思議な感覚にとらわれていた。
彼らが築き上げてきた、ささやかな幸せ。
その温かさに触れると同時に、それを失わせてしまったことへの、言いようのない申し訳なさが込み上げてくる。
ノートの後半になるにつれて、文字には少しずつ力がなくなり、記述も途切れがちになっていた。
『少し、疲れやすい。でも、ルナの前では笑顔でいなくちゃ』
『カイン、心配しすぎよ。大丈夫だって言ってるのに』
最後のページ近くには、弱々しい筆跡で、こう書かれていた。
『ルナ、私の宝物。どうか、幸せに……』
読み終えた時、俺はしばらく動けなかった。
胸に迫ってくる感情が、多すぎて、整理ができない。
悲しみ、切なさ、そして、重い責任感。
俺は、ただ死んで楽になっただけの、冴えない男だった。
だが、この世界で「カイン」として目覚めた俺は、このエライザという女性が命を懸けて愛した娘を、託されたのだ。
元のカインの代わり、ではない。
エライザの想いを、そして、恐らくは元のカインの想いも、引き継いで。
俺が、ルナの父親にならなければならない。
今まで感じていた「場違いな傍観者」という感覚が、少しずつ薄れていくのを感じた。
代わりに、「継承者」としての自覚が、静かに芽生え始めていた。
俺は、ノートをそっと閉じた。
しおり代わりに挟まれていたのは、一枚の押し花だった。可憐な、青い小さな花。
それを指先でそっと撫でる。
視線を上げると、部屋の入り口から、ルナが不思議そうにこちらを見ていた。
いつからそこにいたのだろう。
俺は、押し花を大切に握りしめ、ルナに向かって、できるだけ穏やかに微笑んでみせた。
まだ、自信なんてない。
これから先、何度も失敗するだろう。
それでも。
この託された想いを胸に、俺は進むしかない。
ルナの、たった一人の父親として。
まずは、あの「ふわふわ卵」とやらに、挑戦してみるか。
エライザの遺したレシピがあれば、今度こそうまく作れるかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は静かに立ち上がった。
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