百目鬼くんの推しごと

鈍野世海

1章・百目鬼くんと出会い

第1話

 奇々怪々かつ化学では証明できない人智を越えた現象を起こす存在とされてきた、妖怪。

 遥か昔、人にとって妖怪は恐怖の対象だったが、いつからかなにがあってか彼らは共生するようになり、やがて彼らの間に生まれた半妖という存在も当たり前に見受けられるようになった。

 これはちょっぴり人見知りで、人よりちょっぴり目が多い半妖の男子高校生・百目鬼どうめきくんが、推しに出会って推し活をする、普通(?)の物語。




 【百目鬼くんの推しごと】




(——ど、どうしよう)

 朝、七時半。通学、通勤のために人が溢れおしあいへしあいになっている地下鉄で、百目鬼あずさはいつものように吊革に掴まって目を閉じ、脳裏に昨夜に読んだ漫画の内容を描いていた。脳内読書はあずさの数少ない特技だ。

 とはいえ、がたんと電車が大きく揺れれば、首のあたりの目がほっそりながらも開いてしまうもので——そのはずみに、見えてしまった。

 隣の、隣の、隣あたりの吊革に掴まって立っている、栗毛をひとつに纏め清潔感のある身なりをした二十代前半くらいに見える女性。彼女の顔は、見るからに青褪めていた。

最初は具合が悪いのかと思ったが、なんというか、妙な感じがした。それで少し、視線をずらすと、彼女の後ろにスーツを纏った男性がいた。その男性は、朝のすし詰めの車両にいながらも妙にやにさがった顔をしていた。

 さらに嫌な予感がして、あずさが頬の目も細く開くと、それは確信に変わる——男性のスーツの裾からにょろりと生えたタコのような黒い触手が、青褪めている女性の脚に巻きついていた。

 その光景を捉えてしまった瞬間、あずさの心臓が大きく跳ねて、背や額に冷たい汗が滲んだ。

(こ、こういうときって……どうしたらいいんだろう。警察、に通報、で、どうにかなるのかな)

 どうにかなるとして、それはこの電車がどこかで止まった後のこと。それまであの女性は、傷つき続けることになる。

 分かっている。気づいた自分が声をあげなくてはいけないことは、分かっている。だが、あずさの唇は震えるばかりで何の音も発してくれない。

 物心ついたときから小心者のきらいがあり、そのうえ人間と妖怪・百目鬼の間に生まれた半妖であるあずさは、百個よりは遥かに少なくともそれでも体のあちこちに目がある……「気持ちが悪い」容姿をしていた。

 幼稚園や小学生の頃は、大抵の人が顔に一対持つ目以外をうっかり開こうものなら、周囲の子どもを驚かせ泣かせ、心ない言葉をかけられたり、嫌がらせを受けたこともあった。体育の準備運動や遠足の昼食時間を教師以外と過ごした記憶がまるでない、記憶の中の自分は、いつだってひとりぼっちだった。そのうちあずさは、年がら年中長袖を着て体の目を出来るだけ隠し、常人と同じ位置にある顔の目さえも前髪を長く伸ばして隠すようになった。

 中学に上がればあずさの容姿を露骨に論う同級生はだいぶと減ったが、それまでの経験からいっそう小心者になり対人コミュニケーションに強い苦手意識を持つようになり他人と関わることが出来ず、卒業までひとりぼっちで過ごすこととなった。

 高校でこそは心機一転し新しい環境で友達を作るぞ、とわざわざ地元から離れた学校に進学したが……入学から一週間が経った今でも自分からは誰にも声を掛けられず、誰かに声を掛けてもらっても上手く返せず、気づけば形成されていたどこのグループにも属せずまたひとりぼっち。

 そりゃあそうだ、環境が変わっても、あずさ自身が変われていないのだから。

 分かっていても、動けない。

 動けないのなら、諦めるしかない。

 だから……友達作りはもう、無理だろうなと思っていて。

 青褪めた女性も、にやついている男性も、見て見ぬふりをするしかないんだろうなって。どうせ、あと一駅であずさは降車するのだから——。

(でも)

 ぎゅっと、つり革を握る。

 分かっていた。そんなことをすれば、ただでさえ嫌いな自分のことを、もっと嫌いになってしまうことは。

「あ、の……」

 最初に発した声はひどく小さくて、電車の走行音に埋もれた。

「あの」

 次に発した声には、隣の人がちらりとあずさを見た。それに少し気恥ずかしくなって顔が熱くなるが、首を小さく横に振ったあずさは、二、三度深呼吸して、思いっきり発した。

「あの! その人、痴漢です!」

 ところどころ裏返った声が、車両中に響き渡る。あらゆる視線があずさに、それからあずさが言葉とともに指さしたサラリーマンの方へと集まる。

「なにを言ってるんだ、お前は。そんな離れたところから、明らかに見間違いだろう!」

 顔を真っ赤にしたサラリーマンは瞬く間に触手を引っ込め、あずさよりも遥かに大きさも圧もある声で訴える。あずさはたじろぎながらも、首を横に振った。

「み、見間違いじゃないです。僕は……百目鬼の半妖なので、人よりも視野が広くて、視力もいいんです」

「はぁ、ドウメキ?」

「目が、いっぱいある、妖怪です……こんな、ふうに」

 首の目の、ぴったりと閉じていれば普通の肌のように馴染む瞼をそっと持ち上げて見せれば、男の顔は引き攣り、周囲の乗客もわずかにざわめく。嫌悪、好奇、様々な色の視線が苦しくて、血の気が引く。それでも、あずさは必死に言葉を紡いだ。

「だから、あなたが、そこの女性のこと、触っていたのも、はっきり見えてしまったんです」

「い、言いがかりだ。大体誰がこんな女の脚を——」

「……こんな女の脚?」

 そのとき、女性らしいトーンを持ちながらも地を鳴らすような低い声が社内に響いた。それは、先まで青褪めていた——今はすっかり顔を真っ赤に染めた女性のものだった。

「誰も脚だなんて言ってなかったと思うけど!? この変態痴漢野郎!」

 女性は男性の裾から先っぽだけはみ出ていた触手を掴むと、潰さんばかりに握りしめた。と、それまでざわめいたり視線をあちらこちらへと動かすばかりで傍観していたほかの乗客たちが。

「実は、私もそいつが蛸みたいな触手を動かしているの見えてたの」

「ずっと妙に生臭いと思ってたんだよな」

「助けてあげられなくてごめんね」

「おっさん、観念しろよ」

 などと口々に言い出した。

 次駅に着くと、周囲の乗客によって取り押さえられたスーツの男性は、被害者の女性とともに降車した。あずさもそこが学校の最寄り駅だったから騒動に紛れながら降りしばし彼らのまわりをうろうろとしながらおろおろと見ていたが、やがて駅員や警察と思しい人が駆けつけてきたのを見てもう大丈夫だろうとその場を離れた。

 学校に到着したあずさは思った。地下鉄であれだけの勇気を振り絞れたのだから、今日は元気よく挨拶をして教室の中に入れるかもしれない。そして誰か、誰か一人くらいと憧れの世間話というものができるかもしれない。

「よし……」

 そんな希望を胸に、あずさは一年六組の教室のドアを勢いよく開けた。

「お——」

 瞬間、一気に集まってきた視線にあずさの心臓がひゅっと竦む。

 顔を真っ赤にし、全身の目をきゅっと瞑ったあずさは縮こまりながら。

「……はよう、ございます」と蚊の鳴くような声で続けて、そろそろと教室の中に入った。



「あ、いた!」

 今日も今日とて友達を作るどころか世間話ひとつ交わせず放課後を迎え寄り道ひとつせず帰路に就いたあずさが最寄り駅に着くと、そん快活な声が聞こえた。

反射的に目を向ければ、こちらの方を見ている女性がいた。あずさの後ろにいる誰かと待ち合わせでもしているのだろうか——あれ。

(あの人のバッグについてるぬいぐるみ、もしかして、ユエル?)

 女性が肩に掛けているバッグから、ピンクの髪をしたかわいらしい少年のぬいぐるみマスコットがぶらさがっていた。それは、おそらく、あずさが好んでいる読んでいる少年漫画『ヘヴンリー・デヴンリー』、通称『ヘヴ・デヴ』に登場するキャラクターで、少しの親近感を抱く。

(クラスにも『ヘヴ・デヴ』のグッズを持っている人がいて、声を掛けてみようとしたことあったなぁ……脳内シミュレーションの時点で挫けて、できなかったけれど)

 情けない思い出にしょんもりと肩を落としながら、再び歩みを進めようとしたとき。

「ねぇ、君!」

 先の女性がこちらに駆けよってきたかと思うと、あずさの眼前に立ちはだかった。

「へっ」

 驚いたあずさが思わず後退ってバランスを崩すと、女性が「おっと」とあずさの腕を掴んだ。両手で力いっぱい引っ張ってくれたおかげで尻餅をつかずには済んだ。

「ごめんなさい、急に人が前に来たら驚いちゃうようね」

「い、いえ、そんな、す、すみません」

「ねぇ、君。今朝、助けてくれた子だよね?」

「え……」

 あずさがぽかんと顔をあげると、女性は大きな瞳をきらりと煌めかせる。

「高校生っぽかったし、この駅で降りてるのを見たから、これぐらいの時間に待ってたら会えないかなぁと思って! ……って、未成年の男の子を待ち構える大人の女ってなんかちょっと怪しいか……? あ、そうだ、身分証! ちょっと待っててね」

 女性はころころと表情を変えながら肩に掛けていた鞄をがさごそと漁ると、会社の社員証と思しきものを取りだしあずさに見せた。

「ここから三つ先の駅が最寄りの企業に契約社員として勤めている、浅香遥あさかはるかと申します。歳は二十四歳で、ええっと……好きな食べ物は、冷奴とか?よろしくね!」

 なぜこの人は自分に対して意気軒高と自己紹介を始めたのか——困惑しながらも遥と名乗った女性の顔を見ていると、ふと、どこかで会ったことがあるような気がしてきた。

 そこであずさはふと思い出す。先に目の前の女性……遥が言っていていた言葉。「君、今朝、助けてくれた子だよね」と。

「……もしかして、朝、同じ電車に乗っていた方、ですか?」

「そうそう! あのとき助けていただいたOLです! 朝からずっとお礼を言いたかったの」

「お、お礼って、僕は、なにも——」

「すっごく不愉快で腹が立っていたのに勇気が出なくて困ってたところに、君が声をあげてくれたから、あと三駅我慢する羽目にならずに済んだの。君に助けてもらえたおかげで最高の日を取り戻せたから。本っっ当に、ありがとう!」

 両手であずさの手をぎゅっと握った遥は、ぺっかーと効果音が聞こえそうなほど明るい笑顔を浮かべて見せた。

 あずさが陰だとすれば、間違いなく陽にいる人間。いったいどんなふうに生きればこんなに希望たっぷりの笑顔を浮かべられるものなのだろうか。そんな憧れやら怯えやらをわずかに覚えつつも……あずさの胸にはあたたかなものも滲んでいた。

 遥は、あずさの行動によって助けられたと言ってくれた。あずさのことを覚えていてくれて、礼を言うために、会える保証もないのに、わざわざ駅で待っていてくれた。これまでの人生で誰かからここまでの感謝をされたことがなかった。

 学校では結局勇気を出せず誰とも話せないまま一日が終わってしまったけれど。それでも、電車では、なけなしの勇気を振り絞ってよかったと思った。

「……こちらこそ、ありがとう、ございます」

「なんで君がお礼を言うの?」

 遥は小さく笑うと「それで」と続けた。

「このあと予定とかあるかな?」

「え、ありませんが……」

「もしよかったら、近くのファミレスで一緒におやつ食べない? 今朝のお礼になにかご馳走させてほしいの」

「そ、そんな」

「あ、もちろん、知らない女とふたりで食事するのがいやだったら全然、コンビニで好きなものを奢るとかでもいいんだけど」

「い、いえ、だから、そんな物品を頂くようなことはしていないので……!」

「してくれたよ! と、いうか。本当に君には感謝してて、お礼をしないと私の気が済まないの……まぁ、つまり、私のエゴなんだけど。迷惑じゃなかったら、少し付き合ってくれないかな?」

 眉尻をしゅんと下げ、神仏に祈るかの如く両手を合わせ熱心に彼女を前にすると……この申し出を断るのは、なんだかとても悪いことのように思えた。それでもやはり礼を貰うのは非常に心苦しく。

「少し、だけなら……」

 あずさはたっぷりの葛藤の末、消え入りそうな声でと応えた。



 中学三年間を孤独に過ごし、高校でもいまだに友達ができていないあずさにとって、誰かとファミレスを訪れるというのは初めての体験だった。そもそも外食自体ほとんどしないあずさは、つい物珍しさにあたりをきょろきょろと見てしまう。明るい色の壁紙。飾られている名前の知らない絵画。たくさんのテーブルや椅子。

どれも新鮮で興味深かったが、店員や他の客、学校の駅近くというのもあってちらほら見受けられる同じ制服を着た生徒の姿や目を見ると、ひどく居心地が悪くなる。そのたびにあずさはきゅっと肩を縮め、遥から受け取ったメニュー表に視線を戻した。

 カラフルな色彩のポップな装飾や文字とともに、美味しそうな料理が紙面いっぱいに並んでいる。

(断りづらくて、つい、ついてきちゃったけど……出来るだけ安いものを……あ)

「バニラアイス、で」

「バニラアイスと?」

「えっ……あの、バニラアイスだけで……」

「うーん、今日のお昼何食べた?」

「へ……えっと、お弁当を」

「朝は?」

「パンと、オムレツと、シチューです」

「昨夜は?」

「オムライスです……」

「ちなみに好き嫌いはある?」

「あんまりないですが……あの?」

 何かに納得したように頷いた遥は店員を呼んだ。

「いちごパフェふたつ、ドリンクバーふたつ。それから、フライドチキンと、山盛りポテトをお願いします」

 あずさがぱちぱちと瞬く間に店員は遥の注文を復唱し、下がっていく。

「聞いた感じ、小食ってわけじゃないでしょ? 夕飯に響かない程度にたくさん食べてってよ。あ、もし残しても私が食べられるからそこも心配しなくていいからね」

「私、食べるの大好きだから」と遥は胸を叩いた。

 遥かに促され向かった初めてのドリンクバーで緊張たっぷりにアイスコーヒーを注ぎ席に戻ったところで、遥が尋ねてきた。

「そういえば、君の名前、聞いてもいい?」

「あ、えっと、百目鬼あずさ、です」

「百目鬼くんかぁ。そういえば電車の中でも百目鬼の半妖って言ってたね。目がたくさんあるんだっけ」

 苦手な話題にいっそう身を縮め目を伏せながらも、「はい」とあずさは頷いた。

「僕は半妖で、その、妖怪の血が薄まっているのもあって、百個も目はないんですが……四分の一くらいで……」

「二十五個くらい?」

「……です」

 遥がまじまじとあずさを見つめる。百個まではいかずとも常人の十倍以上の目を持っているのだ、気持ち悪いと思われているのかもしれない、あずさは居たたまれなさに項垂れるように顔を俯かせ、手持無沙汰にうっすら汗をかいたグラスを両手で包む。

「いいなぁ。それだけ目があったら舞台の端から端まで隈なく見ることが出来そう」

 きょとんとしたあずさは、思わず顔を上げる。向かいの遥の顔には嫌悪の色はなく、むしろ、羨望めいたものが滲んでいるように見えた。

 気のせいだろうかとあずさが困惑していると、遥ははっとしたように頭を掻いた。

「いやぁ、いきなり何の話って感じだよね。私、舞台オタクでね。2.5次元舞台って分かる?」

「えっと、漫画とかアニメを舞台でやる、ってやつ、ですよね」

「そうそう! 昨今人気だけど男子高校生でも知っているもんなんだね……あ、男子高校生であってる?」

「あ、はい。高校一年です」

「高校一年ってことは、十五歳!? 猫間ねこまくんと同世代じゃん。わっか~……」

 しばしば額に手を当て項垂れていた遥だったが、姿勢を戻すと、咳ばらいをひとつした。

「その2.5次元舞台が私は大好きでね。で、観るたびに思うわけ——目が足りないって」

「目が、足りない……?」

 目が有り余っているあずさにとってはまったくもって縁のないワードだったが、遥は「そう!」と鼻息荒く身を乗り出す。

「推しを注目して見たい気持ちもあれば、舞台全体を見たい気持ちもあって。ライブパートがあるとやつとかは、例えば上手に歌を歌っている子がいる一方、下手ではそれ以外の子たちがじゃれ合っていたりするの。歌っている子ももちろん目で追いたい、でもじゃれ合っている子たちも見たい……! しかもたいていの場合は撮影日や大千秋楽以外円盤に収まらないから、それ以外の日程のパフォーマンスは見逃したら生涯見れないの……!」

「そ、そうなんですか」

「は、ごめん。つい熱が入っちゃって」

 テーブルの半ばまで身を乗り出していた遥は席に座り直すと、クールダウンするようにウーロン茶を一気にあおった。その様は豪快で、ともすればただのお茶であるはずなのに居酒屋でお酒を飲んでいるように見えないこともない具合だ。

 ぷっはーと息を吐いた遥は、改めてあずさを見た。

「いや、それにしても、百目鬼くんくらい目があったら余すことなく舞台が見られそうでいいなぁ……」

「……はじめて、言われました」

「え?」

「目がたくさんあるのが、いい、なんて。大抵の人は、気持ち悪がるので」

「ええ~? オタクはみんなうらやましがると思うけど。いやこれはさすがに主語がでかすぎ……? でも、少なくとも私は羨ましいよ。視野が広くて、視力もいいんでしょ。二階席になっても双眼鏡いらずなんじゃない?」

 さらりと放たれる未知のワードは理解できないが……どうやら遥が本当であずさの目を羨ましがっているらしいことは伝わってきた。

「あの、そんなに……舞台が、好きなんですか?」

 あまりにもはじめての反応に、彼女があずさの目を羨むきっかけとなったものが、少し気になった。

「うん、大好き」

 遥は、一切の間も躊躇いもなく、清々しい笑顔で頷いた。

「私ね、生まれも育ちも北海道で、大学卒業後は地元で安定した職に就いていたの。でも、友達の影響で舞台にハマって、三月に上京してきたんだ」

「え、舞台のためにってことですか……!?」

「北海道でのそういう公演がゼロってわけじゃないし、遠征っていう手もあるけど……旅費が、やばいんだよね。飛行機代とホテル代諸々はチケ代をはるかに凌駕するから……それならいっそ東京に住んじゃった方がよくない? 舞台も観に行きやすくなるし、と思って」

 なんとも凄まじい行動力。それともそんな行動を起こさざるをえなくなるほどに、舞台が好き、ということなのだろうか。だとすれば、なんというか。

「そこまで熱中できるものがあるなんて、すごいですね」

「いやぁ、私も想像以上のペースに家や転職先決める自分にびっくりしたよ」

「プロになるために野球の強豪校に進学し寮に入る、みたいなこと、ですもんね」

「そんな真面目でドラマチックな青春と一緒にしちゃっていいものかな……? いやでも、言われてみれば遠くはないのか?」

 あずさにも趣味や好きなもののひとつやふたつはあるけれど、そのために人生の進路を変えるなんてことは想像がつかない……そもそもクラスメイトに話しかけるという行動すら起こせないのだから当然かもしれないが。

「今日も夜から推しが出ている舞台を観に行く予定だったの。そんな素敵な日にあんな出来事が起きて、ふざけるなぁ! って思っていたところで百目鬼くんが助けてくれたから、すごいすごいすごい感謝してるってわけ——ん?」

 バッグの中で震えたスマホを遥が取り出す——と、遥はわっと目を剥いて口元を押さえた。

「え、嘘」

 昨日まで凛と咲いていた花が突然激しい日照りに晒され萎れてしまったかの如く、遥は先までの喜色をみるみる悲痛に染めかと思うとついには項垂れた。

「ど、どうしたんですか……?」

「今日の席、ネットの友達と連番……友達と並びの席になるように取ってたんだけど……その友達が、来れなくなっちゃって」

「舞台が見られなくなっちゃったってことですか?」

「ううん、チケットは私が買って持ってるから、観られはするんだけど……空席が……」

「くうせき……?」

「空席が、できてしまう」

「えっと……」

 観られるのならば不幸中の幸いにも感じるが。注文していた料理が運ばれてきて遥は一旦は顔を上げたものの、しかしその表情は一向に晴れる気配がない。

 席が空いてしまうことに、運営している側ががっかりするのは分かるが、ファンである遥がどうしてここまで落ち込むのだろう。不思議に思いつつ、どうにか元気を出してほしいとも思いつつ、しかしコミュニケーションの経験値が著しく低いあずさの頭の中にぱっと励ましの言葉は出てこない——あ。

「あ、あの……! 浅香さんのバッグについているぬいぐるみ。『ヘヴ・デヴ』のユエルですよね」

「え、百目鬼くん、『ヘヴ・デヴ』知ってるの?」

「は、はい。好きな作品です。単行本も、毎回買っていて」

「そうだったんだ。私も好きでね、見ての通りユエル推しで」

 遥の表情がにわかに明るくなった。バッグにグッズをさげるくらい作品のことが好きで、しかも好きなものに対して情熱的な彼女ならば、こういった話題で少しは元気を出してくれるのではないか。そんななけなしの閃きに縋ったが、わりと上手くいったらしい。あずさは内心でほっと息を吐く——。

「今日観に行くのがまさに『ヘヴ・デヴ』の舞台だったの。推しがユエルを演じるね……」

 と思ったら、瞬く間に遥は俯きその表情には影が差し、瞳からは光が失われる。

 励ましに成功したかと思ったら、まさかの特大地雷で追い打ちをかけることになってしまうとは。青褪めたあずさが背に汗をだらだらとかきながらあわあわしていると、ふいに、遥があずさをまっすぐに見つめた。

「……百目鬼くん」

「へ、は、はい? なんでしょう」

「百目鬼くん!」

 悲痛に萎れていた姿が、恵みの水を浴びたかの如く急激に花開く。遥は瞳をぱっと煌めかせると、勢いよくこちらに身を乗り出してきた。

「舞台観劇、興味ない!?」

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