ただ死だけが二人を繋ぐ

 願いと願いがぶつかり合った。

 そしてそのうえで――破れさった。


 正玄は理解した。

 己の願いは、もはや叶わぬものであると。


 どうしても、それだけは成し遂げたかった。

 道場を捨て、娘の幸せを顧みず、それほどの不義理を重ねても、ただひとつ――この願いだけは、叶えたかったのだ。


『志紀が、朔矢と戦わずに済む未来』


 その願いのみを胸に戦って……そして、破れた。


 背後にいる志紀は、一言も発せぬまま立ち尽くしている。


 ――あまりに、真っ当すぎるのだ。闇と相対する剣士として。

 弟と刃を交えることに心を痛め、家族同士の争いに声を失うほどに。


 だからこそ、正玄は志紀には朔矢と戦ってほしくなかった。

 それだけのために、ここまで来た。

 だが――逆に、思い知らされた。


『朔矢は、志紀と戦うことに焦がれている』


 なんてことはない。

 相対する正玄と朔矢。

 最初から二人は、正反対の願いを抱いていたのだ。


 破れたのは、きっと実力だけではない。

 この紛い物で押しつけがましい親心よりも、朔矢の願いが強かった。


 そして、己が敗れた以上――もはや、その未来を避ける術はない。

 さらに言えば、朔矢の真意を思えば、『戦うな』などという言葉は到底吐けない。


 ごぽり、と喉奥から血があふれ出す。

 見事な太刀であった。

 おかげで、もう、残された時間は僅かである。


 正玄は、最後に己が成すべき務めを選んだ。


「志紀ッ!」

 その声に、志紀はびくりと肩を震わせた。


 正玄はそのまま、朔矢の身体に組み付いた。


「んあ?」

 何のつもりかと、朔矢は目を見開いた。

 剣を手放した正玄なんて、恐れるるべきものなど何もない。


「清嶺館当主として命ず! ここは引け! そして態勢を整え、朔矢を討て! それはお前にしか成し得ぬ役目だ! ここは私が時間を稼ぐ――すぐに退けッ!」


 そう叫びながら、正玄は朔矢を押しやり、山の奥へと進んだ。


 朔矢は、何の抵抗も示さなかった。

 当然だ。

 それこそが、朔矢の望みであるのだから。


 要するに、これは演目なのだ。

 志紀が朔矢を殺せるように仕立てるための、殺し合ったふたりの、最後の共演。


「すまんな。至らぬ当主であった。もっと早く、お前の本質に気づいていれば……こうもならなかったかもしれん」

 正玄は、かすれるような声で呟いた。

「いいさ。あんたが政治に向いてないのも、人を見る目がないのも、選んだ先代の責任だ」

「はは……耳が痛いな。だが、人を見る目は――あるつもりだったのだが」

「剣を交えた奴には、な。そうでない奴が多すぎた。それだけの話だ」

「なるほど。私はすべての門下と手合わせするべきだったか」

「そうすれば多少はマシだったろうけど……それでも駄目だったろうな。あんたの節穴具合は、筋金入りだ」

「……そうか。お前が言うのなら、きっとそうなのだろうな。……志紀は、行ったか?」


 正玄の瞳には、もはや何も映っていない。


 朔矢を押し進めているつもりでも、実際はもはやその身体すら動いていなかった。

 振り絞った最後の力さえ、既に失われていたのだ。


「ああ……行ったよ。よろよろと、頼りない足取りでさ」

「そうか……ああ、そうだな。これで良い……。これで、朔矢の最後の願いは叶う。良かったな……朔矢。ようやく、ちゃんばらごっこが……できるな……。そう言えば……昔から、お前は好きだった……な、兄弟で、ちゃんばらごっこを……」


 血が流れ、意識が遠のき、記憶も想いも、ただ幼き日々だけを残して消えてゆく。


 正玄の中の二人は――幼き日の姿のままであった。


「ああ……そうだな」


 否定など、できるわけがなかった。


 正玄は、本当は、父として、我が子のように二人を愛したかった。

 だが、当主としての責務が、それを許さなかった。


 ずっと、それを悔いていた。


 だからこそ、正玄の中で二人は、ずっと子供のままだった。

 決して口にはしなかったが、正玄にとって二人は、実の息子に等しかった。


「私は……何が、足りなかったのだろうか。……ああ、そうか……わかった。はは……」


 最後の最後、その一瞬。

 正玄は、どうしようもない答えに辿り着いた。


 己は、当主として――孤独であったのだと。


「お前たちが、羨ましい……志紀、朔矢。……私に足りなかったのは、志紀にとっての朔矢。……そんな、無二の相棒が、私には――」


 崩れ落ちる正玄の姿を、朔矢は静かに見つめていた。


「それでも……駄目だったんだ。にいさんがいても……俺は堕ちるしかなかった……。ごめんなさい……父さん……」


 涙は、流せない。


 それを許されるのは――人間だけ。

 そのことを、朔矢はよく知っていた。




 わけがわからないまま、志紀は走っていた。

 現実が、頭に収まりきらない。


 弟を失い、ようやく再会したと思えば、斬りかかってきて、そして……弟が、当主を殺した。


 呼吸が荒くなる。

 それが心の混乱によるものか、朔矢に傷つけられた肩のせいか、それとも単に走り過ぎたせいか――もう、志紀には何もわからなかった。


 胸が苦しい。

 視界が揺れる。

 今にも倒れてしまいそうだ。


 それでも、足だけは前に進む。

 退け――と、言われたからだ。

 当主から、最後に、そう言われて。


 ――そう、最後だった。

 あの一撃は、致命傷だった。

 正玄が一時的にでも意識を保っていたのは、奇跡に近かった。


 最後の、蝋燭の火が消える直前の煌めき――その命の余熱で、自分を逃がそうとした。

 だから、走っている。

 思考がまとまらなくても、本能のまま、足を動かして……。


「お、お侍さん! 一体何が……」

 ふと、目の前に老婆が現れた。

 志紀はその顔に、見覚えがあった。

 この山に入る時、見かけた老婆である。


「……なぜ、ここに……」

「少し気になりましてね……いえ、私のことはどうでも。お侍さん、酷い顔色ですよ。それに、その怪我……」

 真っ赤に染まった肩よりも、顔色を心配されるほどに、志紀の様子は異常だったらしい。


「手当を……いえ、村までは遠いですね。すぐ、人を呼んで――」

 その言葉は、最後まで発されることはなかった。

 老婆の首が、彼女の口よりも先に、身体から離れたのだ。


「酷いなぁ、にいさん。置いていかないでくれよ」

 その声色は、あまりにも自然で――まるで、夏の日の道場で走り込みをしていた頃の、あの無邪気な響きにそっくりだった。


 けれど、まるで違う。

 ぬめるような湿気の中に立ち込める、強い血の匂い。

 ぞわぞわと背筋を這い上がる、恐怖と嫌悪が混ざった陰気。


 ここは、陽だまりのような日常ではない。

 夜の闇と悪意に支配された、異界だった。


 地に転がった老婆の顔は、苦悶に歪んでいる。


「ああそうそう、忘れ物。ないと困るだろう?」

 朔矢はそう言って、老婆の隣に、それを放った。


 志紀の――それは、『正玄の首』だった。


「ないと困るだろ? 道場的にさ」

 ケラケラと笑うような口調。

 その軽さが、なおさら恐ろしい。


 怖かった。

 その顔を見るのが、とても。

 だけど、見ないわけにはいかなかった。


 志紀は、そっと振り向く。


 そこにいた朔矢は、前と変わらぬあどけない笑みを浮かべていた。

 ただし、その全身は真っ赤に染まっている。


 それは、負傷によるものではない。

 ――すべて、返り血だった。


 もう、目を逸らすことはできなかった。


 正玄が、死んだ。

 当主であり、父のような存在であった人が。

 それを斬ったのは、かつてと呼んだ存在だった。


「朔矢……」

「何、にいさん?」

「一つ……教えてくれ。なぜ、あの御婦人を殺した。御当主様は……戦いだったから、まだ分かる。だが、彼女は……関係がなかったはずだ」


「なるほどなるほど。そんなどうでもいいことが気になるんだ、にいさんは。……じゃあ教えてあげようか。それはね……よ。ただ、そこに居たから。それだけ」


 あまりに軽い口調。

 罪の意識も、悪意すらもない。

 ただそこにあった命を、何のためらいもなく摘んだだけ。

 他の陰奇術士がそうするように。


 志紀は理解した。

 これが、自分の招いた結末だと。


「……お前の言う通りだった、朔矢。問答など、考えるべきではなかった……」


 最初から、殺す覚悟を持って会いに行っていれば――老婆は死なずに済んだ。

 正玄も、或いは。


 家族への情を捨てきれず、中途半端であった。

 この結末は、甘さと迷いが招いた、自分の罪だった。


 涙が、零れた。

 それは怒りの涙だった。


 ――憎い。

 正玄を殺した、朔矢が。


 ――苦しい。

 変わり果てた弟分を前にして、心が悲鳴をあげている。


 けれど、それ以上に――怒りが強かった。

 不条理をばらまく異形の前で、志紀の心は、煮えたぎっていた。


「良い目をするね、にいさん。次に会う時は、楽しみにしてるよ」

 にこにこと笑いながらも、どこか淫靡な気配を纏いながら、朔矢は言った。


「……その前に、一つだけ頼みがある」

「なんだい?」

「その呼び方をやめろ。私は――外道の兄などではない。今のお前は私の弟、朔矢ではない。ただの、外道だ」


 朔矢は、きょとんとした顔をした後、

 ――にぃ、と口角を吊り上げた。


「了解。あんたの言葉は正しい。藤守志紀、早く俺を殺しに来い」

「……」

「一年やる。一年だけ、お前が俺を殺しやすいよう、舞台を整えてやるよ」

「……どうするつもりだ」

「陽気寮に文を出す。『藤守志紀との決闘が果たされるまで、無用な犠牲は出さない』ってな。……その方が、あんたも燃えるだろ? 藤守志紀」


「……そうだな。最愛の弟の亡骸が、これ以上誰かを汚さないというのなら、それに越したことはない。――だが、良いのか? 今の私なら、お前をたやすく殺せるぞ?」


「ははっ。そんな味気ないことしないって。物事ってのは、楽しくなくっちゃな。それに……俺も大分キてるからさ。あのおっさん、思った以上に強かったわ」


 志紀は、老婆と正玄の頭部を抱え、そっと立ち上がり歩を進め。


 最後に、振り向いて告げた。


「待っていろ、朔矢。必ず、殺してやる」

「やってみろよ、志紀」


 交差する視線。

 そこにあったのは、かつて一度も見たことのない、互いの表情。


 ――当然だ。

 今や彼らは、兄弟でも仲間でもない。


 未来に殺し合うことを誓いあっただけ。

 死が二人をわかつまで、憎みあうだけの、ただの敵でしかなかった。


 二人は夜の闇へと消えていく。

 足音だけが響く静寂の中――互いただ『相手をどう殺すかだけ』を見据えていた。

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