超えられぬ壁
正玄は、ただ正しきことを為すためここに来た。
そこに問答は不要。
陰奇術士は、打ち滅ぼすのみ。
たとえそれが身内であろうとも――。
清嶺館の当主として、そして修羅場を幾度もくぐり抜けてきた男として――正玄に、油断の二文字はない。
じり……じり……と間合いを詰める。
その足取りは重く、確実だった。
それは剣の間合いに入るためだけでなく、同時に背後にいる志紀から距離を取るためでもあった。
誰かを庇いながら戦うには、相手はあまりにも危険すぎた。
正玄は自らを前へ押し出し、朔矢の意識を自分に引きつけようとする。
対する朔矢もまた、先程までとは様子を異にしていた。
――思うように、動けない。
圧倒的な殺気。
それが、彼の動きを鈍らせていた。
剣気を超えた、重厚な威圧。
実像よりもはるかに相手の存在が大きく見えてくる圧迫感。
それはまさに、そそり立つ壁だった。
これが、清嶺館当主。
門下生すべてが目指す、『到達点』。
その人物と、敵として剣を交える日が来るとは――皮肉にも程がある。
朔矢の口元が、どこか自罰的に歪んだ。
彼は親代わりであった当主相手に、何の言葉も交わすつもりはなかった。
通じるはずもなく、そして語るべき未練ももう残っていない。
朔矢が半歩、踏み込んだ瞬間――正玄の姿が、掻き消えた。
既にそこは、彼の間合いだった。
剣戟が、弾けるような音を立てて交錯する。
一瞬の遅れが、命取りとなる世界。
僅かでも間合いに入れば、すぐ斬撃が襲い来る。
正玄は相変わらず、真っ直ぐだった。
昔、道場にいた頃。
どれほど堅物で、生真面目で、恐ろしい存在だったか。
不真面目で軽薄な朔矢にとって、彼は恐怖そのものだった。
だが――決して、嫌いではなかった。
なぜなら、その生き様は、志紀とどこか重なっていたから。
暴風のように剣を振るう朔矢。
殺すためではなく、身を守るための必死の剣。
だが正玄は、その嵐の中で冷静に、そして的確に対処し朔矢を追い込んでいった。
そして――。
一瞬。
正玄が、剣を高く掲げる。上段の構え。
その瞬間、空気が、凍った。
張り詰めた弓を、さらに引き絞ったかのような緊張。
生と死の狭間に立たされる錯覚。
そう、もはや空気が凍ったとしか、言いようがなかった。
よく誤解されるが、正玄という男に『才』はない。
生真面目であることは、確かに美徳だろう。
だが、それだけだ。
剣の道を極めるという観点で言えば、正玄の才覚は門下生の中でも『中の上』程度にすぎない。
抜きん出た才を持つ朔矢はもちろん、純粋な才能でいえば志紀にも遠く及ばない。
いや、既に志紀は芽が出ている。
もはや才覚だけで語るべきではないだろう。
既に、基本技に限って言えば、志紀の方が上となっている。
一つ一つを怠らず、徹底的に積み上げてきた志紀は、『すべての動作の練度が高い』という特性を持つ。
それは裏を返せば、多才であるがゆえに全技に手を回せるということだ。
正玄も同じく努力型ではあるが、志紀と同じ道は歩めない。
凡才故にそれしかなかった正玄と、多才な志紀が同じなわけがなかった。
もし歩めていたなら、彼は当主などやっていなかっただろう。
では、正玄はもはや志紀の『劣化』でしかないのか。
――否。
それは否だ。
いまだ彼は、清嶺館最強の看板を背負っている。
それは決して『当主だから』ではない。
その実力を持って、頂点に立っている。
その事実を、志紀も朔矢も、誰より深く理解していた。
清嶺直心一刀流において、奥義と呼ばれる技は三つ。
そして、その三つの先に、ただ一つの『秘奥』が存在する。
それはただの強力な技ではない。
地道な修練、心身の鍛錬、そしてあらゆる技の習得を経た者のみに許される、流派の到達点。
師範代と呼ばれる者は、三大奥義を習得しているが――それを実戦で扱える者はごくわずかだ。
それほど、奥義とは難度の高い格を持つ。
志紀と朔矢は、その奥義を、実戦で使って見せた。
道場での果し合いにおいて――。
清嶺直心一刀流三大奥義その二『影を宿さぬ写し水』。
清嶺直心一刀流三大奥義その三『足絶ちの旋風』。
秘奥に関しては見世物の意味合いが強かったため、ここでは除外するとしても、二人は正真正銘、奥義を実地で使いこなしていた。
――だが。
ただ一つ、彼らが使わなかった奥義がある。
三大奥義その一。
清嶺直心一刀流――『闇堕としの焔鴉』。
それは使えなかったのではない。
使わなかったのだ。
あの奥義を、目の前のこの男――神代正玄の前で使うことは『恥』だと、彼らは感じていた。
それほどまでに――それは、彼の《技》であった。
刹那、斬撃が虚空を裂いた。
鳥が急降下し獲物を穿つがごとく、正玄の刃が、一直線に振り下ろされる。
ギャリギャリギャリ――。
受け流す朔矢の刃に、金属が軋むような不快な音が響いた。
避ける事は叶わず、そして真正面から受け止めることさえ不可能。
こうして無理やり受け流す以外の行動を取っていたならば、朔矢は今頃命を絶っていた。
朔矢の用いる刀は長大であり、その特性上、横からの衝撃に対しては脆弱である。
それが術により鍛えられた特製の刀であったとしても、正玄の奥義を真正面から受ければ、たやすく叩き折られてしまうだろう。
とは言え……仮に、折れぬことで名高い名刀であったとしても――この技の前においては、ほとんど意味をなさないだろう。
いかに堅牢な兜を戴き、如何に重厚な盾を構えようとも、この技の前には虚しい抵抗に過ぎない。
いとも容易く、それらを両断する。
天賦の才を誇る朔矢とて、渾身の力で受け流すという選択肢しか残されていなかった。
これこそが、神代正玄が振るう奥義――。
清嶺直心一刀流第一奥義、『闇堕としの焔鴉』の威力である。
この奥義そのものは、理屈の上では決して常軌を逸した構造を持つわけではない。
腕の可動域と構造的特性、さらには刀身の重量――それらを最大限に活かし、最も威力の出る振り下ろしという一挙動を極限まで研ぎ澄ませた技。
要するに、剣速と破壊力の両面を究極的なまでに求めただけの、ただ合理的なだけの剣技である。
その名の由来については、かつてこの技により相手の刀を折り、胴を断ち切った際、刀同士の激突によって生じた火花が火災を引き起こしたためと伝えられている。
だが、正玄の使う『焔鴉』は、もはやそんな逸話など生ぬるい。
往年、当主の奥義披露の儀において、道場を暗室にして兜割の演武を行った折のこと。
正玄の一撃は、火花どころか、道場全体を白光が包み込むほどの閃光を放った。
まさに閃烈。
白日のごとき一閃が、瞬間、空間すら塗り潰した。
神代正玄の『焔鴉』は、もはや人智を超えた領域に至っている。
何ゆえに、そこまでの領域に至ることが出来たのか。
その理由は、悲しいほどに単純なものであった。
不器用で、才能に乏しく、頑固で、生真面目。
そうした欠落と制限とに満ちた人間であるが故に、正玄は《一》にすべてを懸けた。
己には、何もない――。
その覚悟と諦念の中で、ただ一つの奥義のみを追い求め、鍛え上げ、願い、焦がれ、魂を注ぎ込んだ。
故にこそ、正玄はその《一》を以て、清嶺館の頂点に立ち続けている。
才覚など、真の到達の前にはさして関係がない。
天才であろうと、凡才であろうと、その差など僅差に過ぎないのだ。
だがそれは、別に努力や修練が全てを凌駕するというわけでもない。
極めるということ。
その領域の前には、才能も、努力も、すべてが『誤差』と化す。
凡人が人生を注いだ一刀を前にして、一人の、努力を惜しまぬ天才は――いま、まざまざとその事実を突きつけられていた。
戦局は、終始朔矢に不利な形で推移していた。
特段深い理由があるわけではない。
ただ、純然たる実力差によるものだった。
正玄の奥義――極みに至った一撃は、実戦において極力撃たせないよう立ち回ることを強制される。
その点で強力な抑止力となっていた。
それを意識せざるを得ぬが故に、朔矢は常に縛られていた。
自由闊達な彼本来の剣風を発揮することもままならない。
加えて、正玄という男が真に剛剣であることが、朔矢にとって最大の脅威となっていた。
朔矢の剣は異様なほどに長く、その軌道はまるで槍のような射程を持ち、相手を寄せつけない。
だが、その長さと重量ゆえに、横からの衝撃に対しては脆弱である。
並の相手であれば問題にはならぬが、正玄のような剛腕の使い手に対しては、容易く折られる危険があった。
それもまた、彼を追い詰める要因の一つであった。
朔矢の表情には、じわりと苦悶の色が滲む。
対する正玄の貌には、一切の揺らぎがない。
ただ純粋な殺意だけを宿していた。
――しかし。
正玄の内面は表情とは裏腹に、泥濘のごとき混乱に満ちていた。
陰奇術士となった元門下生。
そして、息子同然に育てた教え子同士が剣を交えているという現実。
確かに、それらも無視できぬ出来事ではあるだろう。
だが、そうした事例は過去にも幾度となくあった。
陰奇術士とは、かつての記憶や縁を愉悦のために蹂躙する存在であり、人の理など既に失われた異形である。
かつての関係など、彼らにとっては取るに足らぬ玩具でしかない。
だが、問題はそこにはなかった。
正玄が困惑し、苦悩する理由。
それは今、目の前にいる朔矢――その剣を交えた相手が、驚くほどに人間だったことにあった。
正玄は、自身が不器用な人間であることを痛いほど理解している。
思わぬ言動で他人を傷つけ、己の未熟さにより多くを失わせてきた。
冷淡な性格ではない。
だが、『他者の立場になって考える』ということが、どうしても不得手だった。
そんな正玄にとって、唯一相手と真に向き合える手段があった。
――それが、剣である。
剣を交えることでのみ、彼は人と心を通わせることができた。
剣を通じてなら、相手の感情や在り方が見えた。
それだけが、自分の愚かさを補ってくれる手段だった。
だからこそ、今、混乱していた。
朔矢は、闇に堕ちてなどいない。
欲望に溺れてもいなければ、憎しみに呑まれてもいない。
確かに陰奇術士ではあるが、その在り方はこれまでの悪鬼と異なり、あくまで人のまま。
――いや、違う。
人のままなどではなく……朔矢は、前の時と何も変わっていなかった。
かつて道場にいた頃と同じく、どこか斜に構えてはいても、その内側には真っすぐな心を抱えたままだった。
人であるが故に、正玄は突きつけられていた。
自らの過ちを――己の愚かさゆえに、未来ある若者がこのような結末を迎えることになったという現実を。
この惨状は、全て自分の責任だ。
そう、正玄は悟った。
「……せめて、もう少し早く、お前と剣を交えていれば……こんなことには、ならなかったものを……」
ぽつりと漏れた言葉に、朔矢が眉をひそめ、乾いた嗤いを漏らす。
「はぁ? 何言ってんだよ、あんた」
その声音は苛立ちと嘲りを含んでいた。
「俺は、俺の意思でここにいる。あんたの行動で何かが変わったなんて、そんな幻想は持っちゃいねぇよ」
「……それでも、私は向き合うべき立場にいた。そうするべきだった」
正玄の声は、静かに、だが確かに届いていた。
朔矢は鼻で笑い、正玄を見下ろすように言い放つ。
「まぁ、あんたが無能だったのは事実だ。だけど、そんだけだ。……じゃあさ、仮に早く気づいてたとして、あんたに何が出来たんだよ。どうやって俺を救った?」
しばしの沈黙の後、正玄は淡々と答える。
「……当主の座は継がせず、師範代の資格も剥奪し、門下生の一人として扱った。……いっそ、経理や事務方として裏方を兼ねさせるという選択もあったかもしれん。兄の補佐として」
一瞬、朔矢の目が見開かれ、言葉を失った。
それは――あの頃、朔矢が願っていた未来そのものだった。
志紀が当主となり、自分はそれを誇らしく見守る。
隣に女がいて、悔しさを酒に流し、先代に小言を言われながらも、笑って過ごす日々。
そんな、何でもない日常。
ただ、それだけが、欲しかった。
けれど――
「……遅すぎるよ、あんた……」
その呟きは、泣きそうな声だった。
正玄は、朔矢のその顔を見ることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます