第3話:餌と処罰 その1

「幻妖鏡?」


 神凪が疑問の声を上げると、鏡屋は掲げていた手を静かに下ろし、頷いた。


「そう。妖怪や、彼らから人々を守る異能力者たちが暮らす世界——それが、ここだよ」


 頼は顎に手を当て、考え込むような仕草を見せながら、ゆっくりと問いかけた。


「……さっきはつい納得して頷いちまったが、よくよく考えたら意味がわからない。パラレルワールドって、人間が普通に認識できるもんじゃないだろ? しかも、ちゃんと名前がついてるって……なんだよそれ」


 困惑気味に言葉を漏らす頼に対し、鏡屋は苦笑を浮かべながら続けた。


「まぁ……正直に言うと、この世界のことを僕も完璧に理解してるわけじゃない。そもそもこの“幻妖鏡”の話は、とある妖怪から聞いたものでね。僕がさっき話したのは、彼の話と自分の観測が一致していた部分だけ。それ以外の詳細は、その妖怪本人から直接聞いてもらうしかないかな」


 頼が微かに眉をひそめるのと同時に、芽衣がぽつりと呟く。


「……なんだか、信憑性に欠ける話ばかりですね」


 その瞬間だった。


 神社へと続く石段の方から、ひょろりとした男の声が風に乗って届いた。


「お〜い、神主さ〜んよぉ!」


 全員が声の方へ視線を向けると、石段の下から青年の姿が現れた。

 ツノが二本、手のひらほどのサイズで額から突き出ており、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてくる。


「ちょいと頼みがあって来たんだが……って、客人がいるのか」


 青年は神凪たちへ順に視線を流していく。


「お、"噂をすれば"ではないが。ちょうどいいタイミング」


 鏡屋は青年を見るなり近づき、神凪の方へ向き直って彼を手で示す。


「彼はね、さっき話に出てきた酒呑童子の“息子”、想鬼そうき君だよ」


 あまりにも突然の紹介に、三人は思わず動きが止まる。


「ん? 親父の話でもしてたのか?」


 青年が不思議そうに首をかしげると、神凪が驚きで顔をこわばらせながら、震える指で彼を指さす。


「え……? む、息子ぉ? 妖怪が子どもを作るなんて、聞いてないんですけど……」


 その疑問に、鏡屋が補足するように一言加える。


「まあ、息子というよりは……弟子、なんだけどね」


「なんでそんな回りくどい言い方をするんだよ」


 頼が眉をひそめると、鏡屋は頬をかきながら思い出すように言葉を続ける。


「彼……つまり酒呑童子本人が、想鬼君のことを“息子”と呼んでいたからさ。想鬼君も彼のことを"親父"と呼んでいるし」


「弟子……ね」


 鬼という存在は、基本的に自己中心的な性格を持ち、特に強い鬼ほどその傾向が顕著だ。

 そんな鬼が弟子を持つというのは、どこか違和感が拭えない。鬼という種族は、自分より弱い者を見下し、いじめ、除け者にすることが本能のように根付いている。

 だからこそ——弟子を取るなどという行動は、鬼の常識からは大きく外れているように思えた。


 芽衣はふと、目を伏せ、思考を巡らせる。


(自分の欲や衝動すら制御できる存在こそが、“語り継がれる鬼”ということ……か)


 もしかしたら、この世界で頼朝に勝てた理由も、伝説にある「酒を飲ませて酔った隙を突く」という作戦が、酒呑童子自身の“酒好き”という心の誘惑に勝ち、飲まなかった結果だったのかもしれない。


 その時、想鬼が何かを思い出したかのように鏡屋へ話しかけた。


「そんなことより大変なんだよ。俺ん家の近くで、魔女と吸血鬼が大喧嘩してて。なんとかしてくれねぇ〜か?」


 鏡屋はぱちぱちと瞬きをしながら、苦笑いを浮かべた。


「ほんと、あの子たちは喧嘩が好きだなぁ……。わかった、麗奈をそっちに向かわせよう。いいね?」


 その言葉に、麗奈は一つ頷いた。


「かしこまりました」


 鏡屋は軽く手を挙げて「あざっす」と礼を言う。


 その時、芽衣が不意に声を上げた。


「あの……私も、その……喧嘩の仲裁、ついて行っていいですか?」


 その申し出に、麗奈は露骨に嫌そうな顔を浮かべる。


「……なんですか」


「いや、何も……」


 目線を逸らした麗奈との会話をよそに、頼が口を開いた。


「いやいや、まずは元の世界に帰る方法を探すのが先だろ。てか神社の掃除、まだ終わってねぇし」


 だが神凪は、ニヤニヤと笑みを浮かべながら頼の方へと近づいていく。


「いいじゃ〜ん? ちょっとついて行くくらい。まだ午前中だし、午後までに戻ってこれば大丈夫でしょ?」


「のんびりしすぎだろ……」


 頼が呆れたように言うと、神凪は親指を立てながら、キラリとした笑顔で告げた。


「というわけで、頼くん! 君を『元の世界に戻る方法を探す係』に任命します!」


「お前、ついて行きたいだけだろ!」


「ぐへぇっ!」


 頼が神凪の頭に軽くチョップを入れると、鏡屋が芽衣へと問いかける。


「……で、芽衣ちゃん。どうしてついて行きたいと思ったのかな?」


 シンプルなその質問に、芽衣は顔を伏せて、静かに答えた。


「……私は、最近妖怪になりました。でも……妖怪がどういう存在なのか、正直まったく分かっていません。普通に暮らしていたら、知る機会もあまりないと思うんです。だからこそ——」


 そう言って、ぱっと顔を上げる。


「ここで、ちゃんと知っておきたいんです!」


 その真っ直ぐな言葉に、鏡屋は目を見開いた。


「なるほど……ごもっともな意見だね。うん……」


 鏡屋はふっと息をつき、口元に苦笑を浮かべる。


「その……その煌びやかな目さえなければ、もっと共感できたんだけどね……」


 芽衣の目は、"学ぶをしたい"というよりかは、見てみたいとという好奇心に満ち満ちた輝きを放っていた。


 鏡屋は肩をすくめてから、麗奈に向き直る。


「麗奈、この二人も連れて行ってあげな。ただし——早く戻ってくること。客人を危険に晒してはならないよ」


「……わかりました……」


 麗奈は渋々といった表情を見せながらも、仕方なく了承した。


 一方、頼も同じように不満げな顔をして口を開く。


「分かった……。とにかく、迷惑だけはかけんなよ」


 神凪は「もちろんっ!」と満面の笑みで返事する。


「ちなみに、俺に了承は求めないのか?」


 想鬼が自分を指さして尋ねると、鏡屋はあっさりと一言。


「君は助けてもらう側だからね。拒否権はな〜し」


「……ですよね〜」


 そうして、どこかぎこちない形で会話が終わると、神社を後にする想鬼を先頭に、麗奈、芽衣、そして神凪が並んでついていく。


「行ってきま〜す」


 神凪が手を振りながら元気よく声をかけると、頼は苦笑しつつ軽く手を挙げて応えた。


「ああ。行ってらっしゃい。気を付けろよ」


 神凪たちの姿が石段の向こうへと消えたのを見届けた頼は、ゆっくりと鏡屋のもとへと歩み寄る。


「それじゃあ、元の世界に返す方法を探そうか」


「……ああ。なんか、ありがとな。それと、さっきは荒ぶって変なこと言って申し訳なかった」


 頼が素直に礼と謝罪を述べると、鏡屋はにこやかに笑みを浮かべた。


「別に構わないさ。最近はあまり仕事はないし、参拝客も来なくて、ちょうど暇を持て余してたところだったしね」


「そうか。ならよかったよ」


 二人は軽く笑い合い、再び足を動かし始めた。 

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