雪の名を削る 〜忘れられた漁村にて〜
名前という概念は人間の発明であろう。
もし名前がなかったら、自己をここまで発達させることは出来なかったのではなかろうか?
魏志倭人伝に卑弥呼の記述があり、日本史でも太古から名前が存在する。
名前を奪われたらどうだろう。
それは個人の否定であり、全体に取り込まれた有象無象になるだろう。
世の中、戸籍を売るなんて商売があるらしいが、
自分が自分でなくなるという事実を、私は受け入れることができるだろうか?
我思う故に我あり。
そんな言葉を思い出す。
今回はとある雪の町で起こった奇妙な出来ことである。
──そこは地図にも載らぬ港町だった。
かつてはニシン漁で賑わったらしいが、今では人影もまばらで、観光案内の看板さえ雪に沈んでいる。
汽車の終点からさらに車で一時間。案内してくれた役場の男も「今夜は戻れませんね」と笑い、帰っていった。
夕刻、私は村はずれの墓地へ向かった。
案内もなく、村人も誰もその名を口にしたがらなかったが、海沿いの小道を辿ると、雪の向こうに黒ずんだ墓石が見えてくる。
風はなく、波の音も遠く、ただ白だけが空から降ってくる。
私は足元の雪を払った。墓石のひとつに手をかけ、指でなぞる。
名が──ない。
いや、名の刻まれていたはずの場所に、粗く削り取られた痕跡がある。
それはひとつだけではなかった。並んだ墓石すべてに、名を記すべき箇所だけが白く、空白にされている。
苔すら剥がされ、慎重に、だが確実に消されていた。
これほどの数を、誰が、何のために?
背後に気配を感じて振り返ると、村の女がひとり立っていた。
白い頭巾をかぶり、手に白椿を抱えている。
私が口を開くより早く、彼女は言った。
「名前はね、あってはいけないのよ」
静かな声だった。
彼女は椿をそっと、名のない墓に供えると、こちらを見ずに背を向けた。
足跡だけを残して、雪の向こうに消えていった。
私は後を追うことができなかった。
なぜならその瞬間、風が吹いたからだ。
海の方から。
そして──かすかに、鐘の音が聞こえた。
私は耳を澄ませた。
鐘の音は一度きり、雪の降る海に溶けるように響いて、すぐに消えた。
しかし、確かに聞いた。
空耳ではない。録音機のスイッチも入っていた。私は安心するように小さく頷き、手帳に「鐘の音、午後七時五十二分」と記した。
その夜は、元役場の一室を借りて泊まった。
寝具も最低限、電気ストーブだけの質素な部屋だったが、不思議と寒さは感じなかった。
ただ、眠っている間、誰かに名前を呼ばれているような気がしていた。
夢の中で、誰かが私の背後から囁くのだ。
「……おまえの名は、なんというのかい……?」
私は振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、雪が降っている。夢の中でも、音もなく。
──翌朝。
村はひどく静かだった。
あまりに静かすぎて、雪の上に自分の足音だけがはっきりと響いた。
役場の者が来て、言った。
「……今朝、ひとりいませんでね」
「誰がです?」
「いや、ほら、あそこの魚屋の……名前なんでしたっけ、あれ……」
彼は困ったように笑った。まるで思い出せないといった風に。
私はぞっとした。
手帳を取り出し、昨夜の記録を確かめる。
「鐘の音、午後七時五十二分」と書いたはずのその行が、空白になっていた。
ページの中心だけが、誰かが消しゴムで丁寧に消したように、白くなっている。
そしてもう一つ、気になる点があった。
私は、ページの端に──自分の名前を記していた。
「調査者:____」と。
だがその箇所も、墨で塗り潰されていた。
……私は、私の名前を……なんと書いていた?
喉が渇いた。
口を開いて、自分の名前を呼ぼうとした。
だが、声が出ない。
名前が──喉まで出かかって、そこで止まる。
何度繰り返しても、「わたしは……わたしは……」のあとが続かない。
私は急いで墓地へ向かった。
雪は昨夜よりも深く、白椿がまた一輪、供えられていた。
その花は、黒く変色していた。まるで炭のように、死んだ色をしている。
誰が、いつ供えたのかはわからない。
だがその隣の墓石には、まだ名が残っていた。
私の……私の名だ。
震える手で、私はその石に触れた。
だが次の瞬間、風が吹いた。
雪が舞い、石の表面を擦っていった。
──名が、消えていく。
まるで「私」という存在を、世界から消すように。
私は、私であることを、ゆっくりと剥ぎ取られていく。
鐘の音が、再び響いた。
遠く、海の底から──。
戻ってきたのは、三日後の夕刻だった。
特急列車の窓から見える景色は、確かに見慣れた街のものだった。
コンビニ、マンション、工事中の歩道橋。
誰も雪を気にしてなどいない。
私だけが、まだどこかに白いものを引きずっていた。
研究室に着くと、助手がこちらを振り返り、笑った。
「おかえりなさい、先生。〇〇先生」
その名前を聞いた瞬間、胸の内側に冷たい水が流れ込んだような気がした。
それは確かに、私の名前のはずだった。戸籍にも、論文にも、あらゆる書類にそう書かれている。
けれど、それが自分に属する音だとは、どうしても思えなかった。
口の中で何度も繰り返してみる。
〇〇。
──いや、違う。なにかが違う。
誰か他人の名前を借りているような、そんな感覚。
「どうかされましたか?」助手が言う。
「……いや。なんでもない」
私は微笑んだつもりだった。
だがその笑みに自信が持てない。
私が私であるという確信が、どこか擦り切れていた。
自宅に戻っても同じだった。
ポストの宛名、机の上の名刺、パソコンのログイン名──すべて間違いなく私の名前だった。
けれど、その文字の形が、どうにも「見慣れない」。
気づいたのは翌朝のことだった。
駅まで歩く道で、すれ違う人々が、私を見て一瞬、目をそらす。
知り合いに挨拶をしても、妙にぎこちない笑顔が返ってくる。
あたかも、「知っている誰かによく似た人」に会ったかのような対応だった。
街の音が、少しだけ違って聞こえる。
信号のタイミング、電車のアナウンス、コンビニの入店音。
何もかもが“ほぼ同じだが、わずかに異なる”。
私はまだ、あの村にいるのではないか。
あの名もなき墓地の傍に、身を埋めたままなのではないか。
その思いが、雪のように静かに降り積もっていく。
名を呼ばれても、振り返るたびに思う。
これは私ではない。
そうして私は、いつしか日常の中で、自分の名を呼ばれないようにしていた。
声をかけられないように歩き、目を合わせずに済むように時間をずらす。
誰にも、私を呼ばせないために。
それが、私が私であるために選んだ唯一の方法だった。
──今日もまた、誰かが私を呼んだ気がしたが、私は振り返らなかった。
──了(ただし、記録が正しいか確証がない)
ある歴史家の民俗奇譚 鈴蟲夜音 @suzumushineon
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