第2話 白くて大きな、もふもふ?
――グルルル……ゥ。
森の奥から聞こえてくる、低く苦しそうな呻き声。
普通なら、怖くてすぐに逃げ出す場面だ。だって、明らかに大きな獣の声だ。もしかしたら、熊とか、もっと恐ろしい魔物かもしれない。
でも……放っておけなかった。
あんなに苦しそうな声を聞いて、知らないふりなんてできない。それに、今の私には、行く当ても、帰る場所もないのだから。
「……だ、大丈夫かな」
自分でも驚くほどか細い声が出た。私は木の枝を杖代わりにしながら、音のする方へと、一歩、また一歩と、茂みを掻き分けて進んでいく。心臓が早鐘のように鳴っているのが分かる。
しばらく進むと、少し開けた場所に出た。
そして、私は息をのんだ。
そこにいたのは、今まで見たこともない、美しい獣だった。
月明かりに照らされたその体は、雪のように真っ白な毛皮で覆われていて、神々しいとさえ思えるほど。狼に似ているけれど、もっとずっと大きくて、たてがみのようなふさふさした毛が首周りを覆っている。額には、小さな角のようなものが光っているようにも見えた。
(きれい……)
思わず見惚れてしまったけれど、すぐに我に返った。
その美しい獣は、見るからに頑丈そうな金属製の罠に右前足を挟まれ、苦しそうに身を捩っていたのだ。罠の周りの地面は、血で赤黒く染まっている。
「グルゥ……ッ!」
私の存在に気づいた獣は、鋭い牙を剥き出しにして、低い唸り声をあげた。金色の瞳が、暗闇の中で鋭く光り、私を射抜くように睨みつけている。
「ひっ……!」
全身の毛が逆立つような恐怖。足がすくんで動けない。
逃げなきゃ。本能がそう叫んでいる。
でも、獣の苦痛に満ちた瞳と目が合った瞬間、足は動かなかった。
痛いよね。苦しいよね。怖いよね……。
「だ、大丈夫……? け、ケガしてるの……?」
震える声で、私は話しかけた。もちろん、言葉が通じるなんて思っていない。でも、そうせずにはいられなかった。
「私、何もしないから……。助けたいだけだから……」
一歩、獣に近づこうとした、その時。
「ガウッ!!」
獣は激しく威嚇し、罠にかかった足を無理やり動かそうとして、さらに苦痛に顔を歪めた。
「だ、だめだよ! 無理しちゃ!」
私は思わず駆け寄ろうとした。その瞬間、自分でも気づかないうちに、私の手のひらから、ふわりと淡く温かい光が溢れ出したような気がした。……気がしただけかもしれない。すぐに消えてしまったから。
けれど、獣は驚いたようにピタリと動きを止め、大きく目を見開いて私を見つめた。さっきまでの殺気立つような雰囲気が、少し和らいだように感じられる。
(もしかして……怖くないって、分かってくれたのかな?)
私はもう一度、ゆっくりと獣に近づいた。今度は、威嚇されることはなかった。
獣のそばまで来ると、その大きさに改めて圧倒される。見上げるほど大きい。
「痛そうだね……。この罠、外せるかな……」
罠は、獣の足に深く食い込んでいる。どうやったら外せるだろうか。追放される時に渡された粗末な荷物の中に、確か小さなナイフが入っていたはずだ。
ごそごそと布袋を探り、ナイフを取り出す。これで、罠の部品をこじ開けられないだろうか。
「ちょっと、触るね。ごめんね」
恐る恐る、罠の金属部分に手を触れる。獣は身じろぎもせず、じっと私を見ている。その金色の瞳は、もう怖くなかった。むしろ、何かを訴えかけるような、賢そうな色をしているように思えた。
ナイフの先を罠の隙間に差し込み、力を込める。硬い! 全然動かない!
非力な私には、この頑丈な罠を壊すなんて無理なのかもしれない。
それでも、諦めたくなかった。ここで私が助けなければ、この美しい獣は死んでしまうかもしれない。
「う……んしょっ!」
ありったけの力を込めて、ナイフを捻る。何度も、何度も。指が痛い。汗が噴き出す。
すると、カチリ、と小さな音がして、罠の一部がわずかに緩んだ。
「やった! あともう少し……!」
さらに力を込めると、パキン! という音と共に、罠のバネが外れた。
「はぁ……はぁ……外れた……!」
安堵のため息をつくと同時に、私はその場にへたり込んでしまった。全身の力が抜けてしまったみたいだ。
獣は、自由になった右前足をそっと持ち上げた。まだ痛むのか、地面につけることはできないようだ。傷口からは、まだ血が滲んでいる。
「あ……手当てしないと」
私は慌てて立ち上がり、自分が着ていた麻の上着をビリビリと裂いて、即席の包帯を作った。清潔とは言えないかもしれないけれど、何もしないよりはましだろう。
「ちょっと染みるかもしれないけど、我慢してね」
そう言って、傷口の汚れを拭き取り、布をきつく巻いていく。獣は、くすぐったいのか少し身じろぎしたが、大人しく手当てを受けさせてくれた。
手当てが終わると、獣はふいに、私の手に自分の鼻先を優しく押し付けてきた。ひんやりとして、少し湿った感触。そして、ふさふさの白い毛皮が、私の頬をくすぐった。
「……!」
それはまるで、「ありがとう」と言ってくれているかのようで、私は思わず顔がほころんだ。そして、そっと、その大きな体を撫でてみた。
(わ……ふわふわ……もふもふ……)
見た目通りの、極上の手触りだった。柔らかくて、温かい。ずっと撫でていたくなるような心地よさ。さっきまでの恐怖は、すっかりどこかへ消えていた。
気づけば、空はすっかり暗くなり、星が瞬き始めていた。森の夜は冷える。どうしようかと途方に暮れていると、獣は私の隣にそっと横たわり、大きな体で私を囲むようにして丸くなった。まるで、寒さから守ってくれているみたいだ。
その温かさと安心感に包まれて、私はいつの間にか眠ってしまっていた。追放されてから初めて、心から安らげる時間だった。
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ますと、目の前には、穏やかな表情で私を見つめる白い獣の姿があった。
「おはよう……」
寝ぼけ眼で挨拶をすると、獣は小さく一声、「クゥン」と鳴いた。
そして、私は驚くべきことに気づいた。昨日、あんなに酷かった獣の足の傷が、ほとんど塞がっているのだ。私が巻いた即席の包帯は、もう必要ないくらいに。
(すごい回復力……。それとも……?)
まさか、昨日のあの淡い光が、本当に何か関係しているのだろうか?
私が驚いていると、獣は再び、何かを語りかけるように、じっと私の目を見つめてきた。その金色の瞳には、深い知性が宿っているように見えた。
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