#5 お気楽な司書官
やあ、今日も来てくれたんだね。ちょっと散らかっているから、今片付けるよ。
今日は一匹の猫の話をしようか。その猫はまだ子猫なのに、図体がとても大きかったんだ。真っ黒い体で、みんなはその猫を大層怖がった。小さい頃に親と死に別れたその猫は、いつも独りぼっちだ。野良猫として路地裏で食べ物を探す毎日だった。
そんな黒猫は、ある日を境に路地裏からいなくなったんだ。誰かに拾われたのか、あるいは動物に食べられたのか。誰一人猫の行方は分からずじまいさ。まあ、私はどこかで生きていて、素敵な人と過ごしている事を願うよ。
屋敷の中は酷く冷たい空気が漂っていた。外からの光が一切無く、青白い蝋燭の光があるだけだ。壁は所々ひび割れ、とてもじゃないけど、誰か住んでいるとは思えない。本当に記憶を失くす前のボクは、ここに来たかったのだろうか。
「相変わらず陰気臭い所だ」
ウィルが顔を顰める。ルーソは鼻をひくつかせ、あちこち見回していた。薄暗い屋敷の中は、今にも暗闇に溶けてしまいそうだ。
「アドレムさんの屋敷ってこんなに古かったかな?」
「随分昔から箱庭にあるんだ。古くもなるだろ」
ウィルが燭台に触れると、金色のメッキが剥がれた。歩くたびに床も軋み、これじゃあ廃墟みたいだ。一体アドレムという人は、どこにいるのだろう。
「お待ちしておりました。■■■■さん」
いつの間にかボク達の背後に誰かがが立っていた。振り向くとその異様な姿に背筋が強張る。その人は形こそ人間だけど、開かれた本のような顔だった。その人が瞬きをすると、それに合わせてページに浮かぶ目が動く。白い手袋をはめた手は、胴体から完全に離れ、宙に浮いている。足は影に溶け込み、とても不気味だ。ルーソとウィルも本の人に近づこうとしなかった。
「僕はセペラール。このお屋敷の司書官を務める者です」
セペラールの顔のページが捲れると、また違う表情になる。貼り付けられたような笑顔に変わったセペラール。弾むような声と不釣り合いだ。
「私達、アドレムさんに会いにきたの。■■■■、記憶を失くしちゃって、アドレムさんに会えば何か思い出せるかなって思って」
「ええ、ええ、知っていますとも。あなたが門番を退けたのも、庭師を助けた事も全て知っていますとも」
セペラールは嬉しそうにページの中の目を動かす。この人の痙攣したような挙動を見ていると、背筋が凍りそうだ。でも、ルーソもウィルも怖がっている様子はない。まるで、何度か彼に会っているようだ。ボクもこの人に会ったことがあるのかな。こんな不気味な人、一度会ったらなかなか忘れられないと思うけど。
「しかし、生憎ですがアドレム様は今留守なのです。なのでしばらく、本を読んで待ちましょう」
セペラールはそう言うと、本棚の列に向かって指揮者のように指を振り上げた。すると、指名された一冊の本がボク達の前に現れる。”猫の至福のディナータイム”。表紙には幸せそうに舌舐めずりをする、ママレード色の猫がいた。ボクは本を手に取ってページを捲った。鮭のムニエルに白身魚のフライ。料理のレシピが開く度に広がる。
「あ! 私ツナのパイが大好きなんだ」
いつの間にかルーソが本を覗き込んで指差す。こんがりとくきつね色に焼けたパイ。鮮やかな配色の写真は、今にも香ばしい匂いがしそうだ。その時、写真が浮かび上がり、本から抜け出した。暖かい湯気と共に、ツナの匂いが鼻に入ってくる。ボクは目を擦り、目の前に浮かぶ物体を凝視した。本物のパイだ。ルーソは飛びあがり、パイを一口で平らげる。口元に残るパイのかけらを舐め取るルーソの姿は、あの本の表紙の猫そのものだ。セペラールは満足そうに笑う。
「すごい! 本から本物のパイが出てくるなんて」
「驚いたでしょう? この書斎には一風変わった本もあるのです」
ルーソは本から次々に料理を出し、平らげた。最後のページを閉じる頃には、ルーソの口周りは食べかすだらけになっていた。ルーソは念入りに毛繕いをする。その様子を見て、ウィルは気味悪げに顔を顰めていた。
「悪趣味な手品だ」
「まあ、まあそう言わずに。あなたも一冊いかがですか?」
セペラールが別の本棚から本を呼び出す。”人形のパーツ屋さん”。さっきの料理の本より古そうだ。セペラールはウィルに本を渡そうとするが、ウィルはそっぽを向く。
「あら、あら。読まないのですか?」
「俺はそんなくだらない本は読まない」
ウィルは頑として本を受け取らない。セペラールの顔は残念そうなページに変わる。ボクは代わりに本を受け取って捲る。本物の肌のような布の生地に、派手な色のマント。キラキラした本物の目玉のようなパーツ。ページを捲る度に、無意識にボクはウィルと見比べていた。
「気分転換に、新しいパーツに変えてみてはどうでしょうか? 特にこの目のパーツはあなたにぴったりだと思いますよ」
「ふざけるな! 俺は今の姿に満足してる。パーツを弄るなんて真似はしない」
セペラールの言葉を聞くなり、ウィルは今までにないほど激昂した。感情の起伏が少ないウィルがあんなに怒るなんて。よほど変えたくない思いが強いのだろう。確かに、ボクもウィルが今の姿から変わるのは考えられない。縫い目だらけの顔にアイパッチ。ヒイラギが縫い付けられたボロボロのマント。ちょっと不恰好だけど、ウィルらしいよ。
「ちゃちな手品はこれだけか? だったら俺は先に行くぞ」
「まあ、まあ。そう慌てないで。アドレム様もまだお帰りになりませんし、特別な一冊をお持ちしましょう」
ウィルはうんざりしてため息をつく。セペラールが指を振ると、一冊の本が浮かび上がる。ぼろぼろの本だ。文字が煤けて読めなくなっていた。
「この本は随分前にページがバラバラになってしまったのです。あなたにはこの本を正しいページに戻して欲しいのですよ」
セペラールが本を開く。そこから五枚の紙片が落ちた。ボク達はそれぞれ紙片を手に取る。紙片には何も書いていなかった。裏を見ても、どこにも文字は無い。
「付き合ってられないな。何も書いてない紙切れをどうやって元に戻すって言うんだ」
ウィルが乱暴に紙片を投げつける。ルーソも大きい手で恐る恐るページを掴んでいた。セペラールはからかうように笑って、ウィルが投げた紙片を手に取る。
「この本は少々不思議な本でしてね。読者であるあなたが本の中に入って、内容を追体験していただくのですよ」
セペラールがボクの前に進み出る。真剣な面持ちのページに切り替わり、セペラールはボクを見た。
「この本はあなたに読んでほしい……いや、あなたはこの本を読まなければいけないのですよ」
セペラールはボクの前に紙片をかざす。すると、ボクの体からハートが抜け出した。ハートは力強く輝き、紙片へと近づく。それと合わせて、ボクも引っ張られた。赤く輝くハートは、この本を読まなくちゃいけない。そう訴えかけているようだ。でも、それと同時に、ボクは得体の知れない恐怖に引き寄せられた。何か、この本を読むと恐ろしい事になる。そんな予感がした。
「■■■■!」
ルーソとウィルが、ボクの体を抑えようとする。ルーソは爪を引っ込めるのも忘れて。ウィルはポケットから両手を出して。二人とも、まるでボクに本を見せたくないみたいだ。行きたくない。ボクもルーソとウィルといたい。ボクは床を踏み締めて、ハートを自分の元に引き寄せようとする。だけど、紙片は強い光を放って、ボクを取り込もうとした。
「向き合うのです! あなたは知らなければならないのです!」
セペラールが高らかに言う。紙片は更に強く光り、ボクのハートを飲み込んだ。ルーソとウィルはたまらずボクを離してしまう。その途端、ボクの体はハートに引っ張られ、紙片の中へ吸い込まれていった。
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